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Brugge Style
幼稚園で教わったこと
娘が学校から戻ると、連絡帳に先生からのメッセージがあった。
今日、クラスで震災に関する写真や映像を見たり、話し合いをしたのだが、お嬢さんを傷つけてしまったようだ。配慮が足りなかったかもしれない。日本の復興を心から祈っている...云々。
娘がこの話し合いの中、一言も発言をせず、結局号泣したというのは、彼女が半分日本人だからだけではなく、たぶん母親であるわたしの行為のせいだ。
わたしはここのところ、ほとんどの日本人と同じようにネットやTVの前を離れられずにいる。
朝、起床と同時にネットでNHKとBBCをつけ、ニュースサイトやツイッターをチェックし、心配し、涙し、忸怩たる思いにかられているうちに一日が終わる。
毎日毎日何時間も被災地や原発事故の凄惨な映像を浴びるように見ていると、人間は自然と無力感や無常観に襲われる。おそらくわたしのそんな気分が彼女に伝染しているのだな。
亡くなった方々、被災された方々、住めなくなった街のことを考えて、気の毒でしょうがない、でも私には何もできない、と泣く娘に、わたしは言葉もない。
今、正義感に燃える娘が日本へ助けに行きたいと思っても、被災地に入ることは無理だ。
子どもは自分の身の回りのでできることをしなければならない。
具体的にはどういうことがあるだろうか。
幼稚園の時に教わった。
「自分のしていることを、その街の人みんなが真似をしたら、その街は前よりも住みやすい街になるでしょうか、住みにくい街になるでしょうか。
住みやすい街になるようなことを進んでしましょう。」
というのだ。
わたしが通った幼稚園はカトリックだったが、「神様が見ているから」とか「地獄に堕とされないように」とか、そういう「われわれより一段上にあってわれわれを裁く神」を指針にせず、人間の自律をうながす思想がすばらしいと思う。
例えばセルフサービスの店に入った時、自分の飲み食いした物をテーブルの上に置いたまま店を出てもいいよね、一回だけだし、今日は急いでいるし、誰かが片付けてくれるだろうし、と迷うとする。
でも、街のみんなが後片付けをせずに店を出るとしたらどうなるだろうか。
反対に、皆が余裕を持ち、片付けてから店を出るとしたらその店内の雰囲気、街の雰囲気はどうなるだろうか。
例えば困っている人がいるとする。助けるのは恥ずかしい。言葉が通じないみたいだ。でも、自分と同じように誰もその人を助けないとしたら?あるいは自分と同じようにみんながその人を助けるとしたら?
どちらがいい街になるか、考えるまでもない。
うん、いい教えだ。
もちろんわたしはこれらのことを自分自身のために言っている。
子どもに話すと、いつも自分が成長すべき点に気づかされる。
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