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swan lake, natalia osipova




ロイヤル・バレエ『白鳥の湖』。

Natalia Osipovaのオデット・オディールにはDavid Hallbergのジーグフリードが配役されていたのだったが、彼が芸術監督を務めるオーストラリア・バレエ団の手が離せないらしく、1週間前にReece Clarkeに変更とのお知らせがあった。


Natalia Osipovaは全体的に唯一無二な感じがとてもよかったが、オデットの演技はわたしにはちょっとくどすぎた。
まるで阪東妻三郎の映画に出てくるナヨナヨした、動作にいちいちタメの多い女性のようだった。

オディールは多くのダンサーが妖艶に演じるのを、どちらかというと無邪気で愛らしく演じて大変魅力的だった! 
前回の2018年のLiam Scarlett版初演時には、なんとオディールのヴァリエーションで32回転グラン・フェッテの代わりに、挑発的で猛スピードのピケ・ターンをやって人々の度肝を抜いたのだったが、今回はすたすたと中央に歩み出て装飾の多いグラン・フェッテで会場を沸かせた。

彼女は振り付けで、個性や独自の解釈以上の結構好きなことをやっていると思う。どこまでが各ダンサーに委ねられているのだろう...


Reece Clarkeは非常に美しい若い男性ダンサーではあるものの、踊るのが精一杯で、まるで黒衣のよう。思い出したように苦しそうな顔芸をするのがおかしかった。前回の『オネーギン』と同じで、愛と悲しみに引き裂かれているのはNataliaだけという...今後に期待。


大きい白鳥のMayara Magriの美しさに釘付けにされた。


(写真は2018 ROHから拝借、Photograph by Bill Cooper)
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alighieri




ここ数年、意識してコレクションしているジュエリーのブランドが英国デザイン賞を受賞したとのお知らせがあったので、それについて書いてみようかと思う。

Alighieriは2014年に、ダンテの『神曲』にインスパイアし設立されたロンドンのジュエリーブランドだ。
デザイナーは大学でフランス語とイタリア語を修めたRosh Mahtani。


一つ一つのピースを『神曲』の詩に対応させ、敷衍して記憶や旅、土地などにまつわるストーリー性を持たせているがゆえに心を鷲掴みにされるブランディング(あまりこの単語に好感を持っていないのだが)。
また、壮大な詩の一編や一部、象徴、隠喩に対応しているため、コレクション心をくすぐられる。

カードゲームのカードやモンスターを集める気持ちと一緒なのかと思う!

わたしは持っていないが、『神曲』に神聖な数字として繰り返し登場する「3」をモチーフにしたネックレス、欲しいなあ。


写真のイヤリングは「オリーヴの枝」という。
一番最近買ったもので(先週百貨店リバティのセールで!)バロックパールの大きいサイズがとても好みだ。
煉獄篇において、オリーブの枝は友情の印だそう。

他にもオリーブには聖書の平和の象徴の他、太陽、豊穣、富、勝利、生命などを表し、縁起がいい。
写真の枝はうちにある樹齢60年あたりのオリーヴの樹からもらった。最近の長雨のためだめになってしまわないかと心配...


ジュエリーはわたしにとってはただのおしゃれの飾りではなく、宗教遺跡や聖具などと同じカテゴリーにあるもので、時間、神性、聖域、神話、精神性などを象徴している意味のあるものなのだ。


高価なジュエリーではないのでコレクションしやすいのもいい点だ。じゃらじゃらと愛用中。
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madam butterfly



アンコールで深々とお辞儀をする黒衣。



イングリッシュ・ナショナル・オペラでプッチーニの『蝶々夫人』を公演している。

先日、『蝶々夫人』リハーサルを見て、いくら現代風に書換えようが、自分はこのオリエンタリズムに彩られた話が根本的に気にくわないので、本番は見に行かないと断言したのだったが(笑)、会場一いい席が取れたので娘と一緒に見に行った。

フェミニストであることが当たり前の世代の娘と#MeTooで盛り上がって憂さ晴らしをしようとしていたのである。


先に書いておくが、リハーサルの時よりもアーティスティックな面では数倍優れていたと思う。
細かなあれこれを気にしないで観覧すれば、蝶々夫人役のNatalya Romaniwの菩薩のような凛凛しく豊かな声、 女中・鈴木役のStephanie Windsor-Lewisの説得力ある演技力! すばらしかったです。

誇り、裏切り、悲嘆、愛、慈悲、希望をなくした人間はどう振る舞うかといった人生の要素の表現を賞賛して終われない、この『蝶々夫人』という作品よ...


最初のインターバルで娘は言った。
独善的で幼稚で野蛮で厚顔無恥に描かれているのは「アメリカ」=「男性」で、それが誰の目にも明らかであるから腹は立たない。

着物の極彩色や日本語単語の不正確さ、習慣や作法などの誤解など、細部への不満はあげたらきりがない。
確かに過去に創作されたオペラとして、「日本」=「女性」に対する時代的な差別背景はある。が、蝶々さんは従順的ではなく、むしろ主体性を持ってはいまいか、と。

それはそうだが、男性優位の文化イデオロギー内での話にすぎないのよ...と母は言う。
娘は、「ママ...これはオペラだよ」と。
その通りだけど...


わたしは急進的なフェミニストが、白雪姫を、眠れる森の美女を、シンデレラを、王子様の到来を待っているだけの受け身で主体性がない女と批判することに対しては毎度、鼻白んでいる。
書かれた時代背景込みで楽しみ、「なぜそのように語られてきたか」をむしろ楽しむべきである。それは古典バレエが三度の飯より好きなわたしにはよっく分かっている。

『蝶々夫人』を見てわたしが感じる憤りは、白雪姫やオーロラ姫には自分で人生を切り開く主体性がないから女児には見せるなという怒りと同じなのか?

何が私をそんなにムカムカさせるのだろう。

分からないから書き出してみた。

日本の社会、文化、言語の描写が正確ではなく、正しく描こうという姿勢も見られず、無知で無邪気なオリエンタリズム丸出しである。しかも彼らは無反省である。
日本を未開で蒙昧で迷信深く、日本を人治国家で、人権もない国であると描いている(<これは事実かも・笑)。
日本女性を従順で名誉を重んじる、男性にとって便利な理想として描いている。

15歳の少女が100円で買われる。
少女は親族と絶縁することになり、改宗までする。
少女を「おもちゃ」と表現。
重婚どころか、「本当の妻」を連れて子供まで取り上げに来る。
男性は何かしらの責任を取るどころかセンチメンタルに泣いてみせて終わり。
女性は自殺。

まだあるかもしれない。


上野千鶴子だったと思うが、こんなことを言ったのをメモしていた。
「男性が男性として性的に主体化するために、女性への蔑視がアイデンティティの核に埋め込まれている、それがミソジニーだ」

男を「オクシデンタル」、女性を「オリエンタル」と読み替えてみても話は通じる。

つまり、『蝶々夫人』は二重に日本(東洋)と女性を蔑視し、西洋と男性が「距離のパトス」を設けているためにわたしは2倍腹がたつ...のだろうか。

もうちょっと考えてみよう。
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凡庸な、それも才能



Nicolas MaesによるJacob Tripの肖像。
Jacobo Tripは鉄と武器を扱う最も成功した裕福なオランダ商人で、
レンブラントも肖像画を描いている(下)



ナショナル・ギャラリーで無料で開催されているミニ展覧会、Nicolaes Maes:
Dutch Master of the Golden Age
『ニコラース・マース:黄金時代のオランダ名匠』を見てきた。


ニコラース・マースはかの巨匠、レンブラント(1606ー1669)の弟子のひとりである。

素人のわたしの感想が許されるのなら、「超有名な巨匠の弟子だっただけ」の人だ。

マースによる、レンブラントの模写や、構図を真似た作品はたくさん残っている。
なるほど形態や色は天才から模倣できる一方、「巨匠を巨匠たらしめている何か」はどうしたってコピー不可能で、それだけを取り出すことはできないのであるな。

弟子が師から何かを習得する際、師匠を見るのではなく、師匠が見ている月を見よ、という。
この「師匠」は、別に実在する人間でなくてもいい。

師匠の眼を借りて月を見る弟子は、「真似」や「自分の成功」という私心を捨てたとき、弟子でありながら弟子ではなくなる。今の自分自身を超越した何かに憑依されてしまうのだ。

例えばそれをギリシャ神話ではミューズと呼び、モーツアルトは「自動筆記」と呼んだ。

マースの作品は、どれもこれもレンブラントの「ミューズ」だけを画面から洗い流して捨てたような作品が多い。



17世紀、稀有の大繁栄を遂げたオランダ(オランダはイギリスに先駆けて世界で最初に世界の「覇権国家」になった国である)では、富裕な市民階級が社会の中心になり、芸術作品も彼らのスタンダードに合わせて制作されるようになった。
画商という職業が誕生したのもこのころである。

絵画の主題も歴史や神話を題材にした大型から、市民階級が好む家庭生活や教訓、静物を題材にした小型に変化した。
内容も当然、理解に知識が必要なテーマから、誰が見ても分かりやすいテーマへと変化していく。

マースが後世に名を残し「名匠」とまがりなりにも呼ばれるのには、彼の凡庸さ、普通さ、ニュートラルさ、キッチュさ、あざとさ、土産物屋の品物風、といったものが、市民階級が中心となったオランダの黄金時代がまさに要請したものだったからかもしれない。

時代にぴったりと呼吸を合わせた名人。それも才能なのだ。

実際、彼が生きていた17世紀には結構人気を博したようで、最終的に肖像画家に転身し、亡くなった時には立派な財産があったそうだ。

一方で、レンブラントの芸術家人生には大きな浮き沈みがあり、しかしマーケットに迎合するより芸術を追求し、困窮のうちに亡くなっている。


以上は展覧会マース評ではなく、素人の意見、印象です。



レンブラントによるJacobo Tripの肖像。
ナショナル・ギャラリー蔵なので、写真を撮りに走った(笑)。ピンボケで失礼。
この写真では到底良さが伝わらないので、近々撮り直してきます。

この死期迫る老人の存在の淡い輪郭、預言者のような精神性...!!
二人の画家によるJacoboTrip夫人のMargaretha de Geerの肖像の比較はさらにおもしろい。
レンブラントはMargaretha de Geerの性格に、絵画の対象として
深い興味を持っていたのではないかとすら思えるほど。
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薔薇の庭師



冬の間は暖房で花がすぐにしおれてしまうが、温室には普段暖房を入れていないので、花はとても長持ちする。

うきうきすることに今日はお天気がとても良く、温室の気温が26度まで上がり、薔薇の花びらが一気に開いた。

早速温室内の掃除をして、お茶を入れた。


こんなニュースを見た。

ギリシャ神話に登場するミダス王(触れるも全てを黄金に変えた王)の死に関しては今まで不明であったが、最近トルコ中央のアナトリアにあるコンヤ平原で碑文が発見され、それによると後ヒッタイト王国のハルタプ王に攻められて死んだことが判明したそうだ。

わたしはてっきり、食べるものがなくなって(触れるものが全部黄金になるから!)餓死したのかと思ってましたよ!


なぜこんな話をするかというと、ミダス王は「薔薇の庭師』という別名をもっているから...

「神から与えられた園を守り、耕す庭師=王」とは、古代メソポタミアの王のイメージである。
「庭師」によって国に平和と繁栄が実現している状態をアッカド語では「シュルム(福祉)」というそうだ。神の園の庭師としての王のイメージは、繰り返しレリーフにも描かれている。

ミダス王が「薔薇の庭師」と呼ばれたのもこの伝であろう。薔薇の庭師としての王...そういう国に住んでみたい。


下の写真は大英博物館蔵、アッシリアのアッシュールバニパル王の玉座の後ろに飾られていたものだとか。

庭の中心には聖なる樹が生えており、その樹を守る王(樹の両側に2度描かれている)は、その上に現れた太陽神を礼拝している。両側で王の後ろを守る有翼なのは守護神。




その樹って聖書の「エデンの園」のモチーフじゃないの? と気がつかれた方はするどい。


最初、別の薔薇の話を書こうと思っていたのだが、こんな話になってしまった。

古代メソポタミアの神話、大好き。
薔薇も大好き。
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