私の義父は新潟の僧侶です。
今こそ合併して「市」になっていますが、つい最近までは「村」と呼ばれていた所にある山寺。
多くの門徒さんは、実家は村に残し、生活基盤は関東に置いたりしているそうです。
そこで、年に一度、東京の築地本願寺で関東の門徒を集めて法座が開かれます。
先日、その義父の関東に住む弟さんが亡くなられ、生前に「その法座で会おう」と兄弟と話されていたということで、その義叔父を偲ぶ集まりも兼ねられるので、私家族を連れて参加してきました。
そのときのご法話で聞かせていただいたお話は、お釈迦様がお悟りを開かれたときのお話。
そのときの言葉がこれです。
我 今 甘露の門をひらく
耳のあるものは聞け
ふるき信仰を捨てよ
お釈迦様が開かれたお悟りを、衆生に伝えることが出来るか迷われるのですが、留めては置けないと伝えることを決意された言葉でもあります。
ご法話では、迷信や、死者供養の考え方から離れるということで「古き信仰を捨てよ」という言葉を引用されていましたが、私はこの言葉に勝手に別の思いをめぐらせていました。
「我 今 甘露の門をひらく」ということばで、真実の法が完成し、整っていることを宣言され、
「耳のあるものは聞け」とこの私に向けて「受け取っておくれよ」のお心が示されます。
しかし、この私と言うものは、自分の都合の良い聞き方をしてしまう。
真実の法でさえ、自分に取り込み、計り、謀ってしまう。
また、すでに聞いている、聞けているとうぬぼれて、これで良いと自分の信を護りにかかってしまう。
そういう、自分中心の思い、我執をして「捨てよ」と言われているんじゃないでしょうか。
なにも、今までの信仰は間違っているから改宗せよとか、外にある様々な考え方を批判していることではなく、この私自身の中にあるものを振り捨てよと教えられている。
まさに仏敵がそこにでんと居座っていることを見透かされている。
求道者は求めている”つもり”の心、獲信者は仕上がっている”つもり”の心。
あるいは、自分はまだ求道者だ、いや獲信したなどという、状況変化にこだわる心。
そんな内向きの思いを断ち切り、開かれた甘露の門より届けられる真実を、ただ「聞け」とおっしゃられる。
じゃあ、自分には耳があるのだろうか…などとまた内向きにこもってしまいがちだが、この聴く耳さえいただきもの。
自分で判断するのではなく、このいただきものの耳で「聞け」とのお示し。
そう、耳は外に向いているもの。
うちに向けても何も聞こえるはずが無い。
すなわち、自分への執着を振り捨てて、ただ聴聞。
もう、こちらがどのように心をめぐらせ、どのようにこだわっていくかをすべて見透かした上で、この3行の言葉に集約されていると言う…。
今回のご法話では、このお釈迦様の言葉を受け取ってくださいと、みんなで何度か唱和させていただきました。
いっしょに教えていただいたのは四法印のおはなし。
諸行無常
諸法無我
一切皆苦
涅槃寂静
あたりまえのことなのに、あたりまえと思えない顛倒したこの身に、確かに「耳のあるものは聞け」と真実を届けていただきました。
それに答える私は、ただ、ただ…
南無阿弥陀仏
不思議なことで、まったく別の場所で別の集まりをされていた「かりもん」氏がこの言葉をブログで話題にされていました。
そういうルートを通って、またこの言葉が深く染み込んできます。
百重千重囲繞して よろこび護りたまうなり…
お勤めの中の和讃の言葉が真実となって響いてきます。