コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

ご縁・出逢い・心の動き ~「別離の悲しみを考える会」との関わり

2009-06-26 00:02:11 | 真宗カウンセリング

昨日話題にした「別離の悲しみを考える会」ですが、そこに参加するまでに至るところで、なかなか面白い心の動きがあったのでそれを書いてみます。

まず最初のきっかけとしては新聞の記事なんですが、私は基本的に「新聞を隅から隅まで読む」と言うタイプではありません。
時間のあるときに、ちょっと休憩がてら眺めると言う感じで、一切読まない日もあれば、2・3日前の新聞でも他にすることが無ければ読んだりします。
普段、仕事の合間にネットでニュースサイトを見たりしてますから、速報性はそこで情報を得ますし、興味を持った見出しがあれば、検索していくつかのサイドからその話題を深めていくことも出来ます。
そうすると、新聞で話題になる”事件性”のもので興味のあるものは、すでに古い情報となっていますから。

ですから、新聞を見ているとき、目では文字を追っていますがほとんどは「頭に入っていない」状態ですね。
しかし、ふとしたときに「気になる」ものに出会います。
それは本当に偶然の産物で、同じ記事でもこちらの心の居所が違えば見逃していることでしょう。

今回の「別離の悲しみを考える会」はまさにそういう出逢いでした。
何かが心に触れた…
今思い返すと、そこに説明をつけることは出来ますが、その時点では「意識しないなにか」でしかなかったんですね。

ただ、これだけで終わっていれば「ちょっと興味を持った話題」で終わっていたかもしれません。
次に重なった偶然は、その記事を読んだ次の日に「真宗カウンセリング研究会 月例会」があったこと。
会のはじめに、チェックインをかねてそれぞれが気になる話題や、心境を語る時間があるのですが、私はその記事を読んだことを口にしていました。
そこには無理に「真宗カウンセリングに関係する話題を」という意識は無く、その時点で心に留まっているいくつかの話題のひとつを言語化してみるという単純なものです。
実際、他の方が話されているときに「自分の番が来たらこの話題を…」と言う候補がいくつか浮かんだり消えたりしていました。
タイミングや、他の人の話題に心動かされることがあれば、まったく違ったものを口にしていた可能性もあります。

そうやって、心の隅に残っていた話題を言語化してみる…すると、その話題が私の中で深まってきます。
それまでの意識より、「話題にした責任」を勝手に自分のなかに作り上げていきます。
その責任は、別に負担になったり脅迫的に感じたりするものではないんです。
気になる異性を意識するというか…勝手にドキドキしてる感じに近いでしょうか。

月例会から帰ってくると、ネットでもう一度その話題を検索するに至って、「参加したいな」というところまで気持ちが固まってきます。
でも、そういう場合でも、ちょっと別の予定が入ったり、事情が出来れば他を優先する程度のものです。

当日、子どもに「帰宅する頃、お父さんは外出してるかもしれんから、鍵だけは忘れないように」という念押しをし、出かけられない理由をひとつつぶしておきます。
しかし、「ちょっとパソコン関連の調子が悪い」という連絡が入ってきたりします。
「どうしても参加したい」と言うものなら、「別の予定が終わってから、夕方にお邪魔します」という選択もあったでしょうが、私の中の優先順位によりトラブルのケアのほうに向かいました。
2時過ぎから作業を始めて、30分くらいでなんとか解決しました。
ここから会場の本願寺までは車で10分ほど。
最初は自転車で向かうつもりでしたが、それでは間に合わないので車を出して会場へ。
この時点で「もう留めるものはないから、参加しよう」と言う気持ちが盛り上がってきます。

そうして会が始まり、前回書いたような話を聞かせてもらったのですが…
最初に持っていたイメージは「自死を防ぐために」という話題だろうと言うものでしたが、「残された遺族への関わり方」ということでちょっと気持ちが引いた感じがありました。
しかし、講師の方のお話は、学者や周辺の関係者の話ではなく、話し方や言葉は丁寧なものの「当事者」「経験者」の「心の叫び」として届いてきました。

対策を考えたり、応対することではなく、「聞いて欲しい」「知って欲しい」という声を聞かせていただくこと。
これは、私が今大事にしている「尊重」のまさに第一歩の部分です。

もしかしたら、その次なる「行動」を求められているのかもしれませんが、まずは「聞く」ということで、講師の方の気持ちに寄り添うことができれば…。
終わる頃にはそういう気持ちが中心になっていました。

 

ふと目にした新聞の記事…そこから1週間の間にいろいろな心の動きがあります。
まったくもって不思議なことです。
偶然の出会いにして、必然があったと。
それを”ご縁”と思いますし、出逢いであったと思います。
今後、どう動くかは別として、今回の出逢いも取り込んだところで、今の私が”在る”ということはハッキリしています。

真宗カウンセリングが正しいこと、大事なこと、必要なこと。
まずは私個人にとってであり、そこから様々な関わりの方に広がっていければ。
西光先生と今話が出来れば、先生の目指されていたものをお聞きできるのですが、その歩まれた道を、先に歩む先達を訪ねながら、私なりの動きを。
(ちょっと意気込んじゃってるかな)