前回の書き込みで、「ここまでが前置き」と書いたけど、もうちょっと枝葉の話。
これも10年位前の話だと思うが、ネット上で真宗の関係者と掲示板でやり取りしていると、よく「差別問題」に関心を持っている(というか、差別根絶への活動をされている)方々と意見を交わす(そんなやさしんもんじゃなかったかもしれんが)場面が良くあった。
差別の問題をデリケートに扱っておられる方々なのだから、そこには相手への配慮・尊重と言うことが大事になってくる。
そういう尊重をされてこなかったがゆえに被差別という問題にあっている方々のことを問題にされているからだ。
しかし、その活動に熱が入るからか、自分たちの考え方に賛同できない人に対して”攻撃的”になられる場面が多々あった。
今そこにある問題を何とかしたいという思いはわかるが、そこで相手に対して攻撃的になるということは、相手への尊重がなくなっている姿じゃないだろうか。
一方で、まだ若かった私もまた、そういうことを攻撃的に返していた。
そこに相手への配慮は無く、自己主張の塊であり、「相手にわかって欲しい」という気持ちを旗印に、「打ち負かしてやろう」という気持ちが湧き上がってくる。
相手に何かをわかってもらいたいのならば、まずは相手を尊重して、相手の言いたいことに耳を傾ける。
これは他の場面にも通じることだが、そのことは次の機会にするとして。
もうひとつ、同じ頃に出会った場面だが、ある言葉のことについて論争があった。
相手の方は、何冊も本を出されている、その世界では著名な方。
問題を判りやすくするためにその言葉を出すが、「啓蒙」と言う言葉である。
この言葉には「知らない人に教える」という意味が一般的なのだが、かなり上から目線で「お前は無知だから教えてやろう」というニュアンスがあるようだ。
この「蒙」という文字は「モンゴル」のことを現しており、中国が周辺国であるモンゴルを見下して使われたと言う経緯があるらしい。
私自身も最初から知っていたわけではないが、ある人がこのことを問題にし、「嫌な思いをする人が居るのならば、使うべきではない」という意見をされた。
その言葉を使った側の方は、「一般的に通用している」「そういうことを言い出したら言葉狩りになる」という反論をし、お互いにヒートアップしていった。
私の立場は、「嫌な思いをする人が居て、他に置き換える言葉があるなら無理やり使う必要も無いだろう」というもの。
しかし、いつしか「嫌な思いをする」人のことは置き去りになり、「自分の考え方に賛同」するかしないかと言う対立構造になってしまっていた。
ここには配慮はなくなっている。
一面としては、まず「嫌な思いをしている」ひとはどう思っているかに思いを至らす、そういう人の考えを尊重出来れば良かった。
もう一面として、この論争している相手に対して、自分と違うから「間違っている」と枠にはめてしまうのではなく、「そういう考え方もある」と相手を尊重することが出来れば良かった。
また、相手にも相して欲しかった。
そういう尊重を相手に求めだすと、これもまたややこしくなってくるので、ここはまず「私の出来ること」として、相手がどうあろうと「相手を尊重する」ことを私が意識してみること。
きっと、そのためには「あぁ、尊重されているなぁ」という経験が必要だと思う。
ミニカンの研修はまさに、そういう気づきにうってつけだと思う。
最後に、話題に上げた言葉に関して、今も私はその言葉で「嫌な思いをする」人が居ると聞いたならば、その言葉は使うべきではないと言う考えを持っている。
「本当にそう思っている人が居るなら目の前につれて来い」という意見もあるが、「いない」という証明も出来ない限り、無理に使う理由は見当たらない。(啓発って言葉もあるしね)
この考え方は、「日の丸」や「君が代」に対しても一貫して持っている。
ただ、異なる意見の人を一方的に「悪」と決め付ける気持ちは、今はもうない。
まだ続きます。