相手に何かをわかってもらいたいのならば、まずは相手を尊重して、相手の言いたいことに耳を傾ける。
ということを2回にわたって書いてきた。
実は、このことを書き始めたときは、ある程度の着陸点が見えていたのだが、先週のミニカンでこのことを話題に話してみたところ、私の中にまた違った着陸点が現れてきた。
というか、部分的に私自身の思いに迷いが出てきた。
面白いもので、以前ならばそういう湧き出してくるものを隠したり、あるいは横において、最初の思いに突き進んでいくのが私だった。
まぁ、所詮ゆらゆら揺れる心を相手にしているのだから、トーンが変わってきてもそれはそれで今の私なのだから良しとしているところがある。
まぁ、論文をまとめているのではなく、ブログ=日記なんだから、その時々の思いを切り出していくのもいいだろう。
「相手を尊重する」ということを法座の場面で考えたときに、できるだけゆっくりと、その人の言いたいことをまず出してもらいたいということがある。
その人にはその人の歴史があるし、「真宗を求める」と同じ看板を掲げていても、興味の度合いも違えば、求めている到達点も違う。
また、関わりあうのは人間同士だから、表に出てくる言葉だけですべてが通じない。
そう、人間同士の部分で「大事にしてあげたい」ということがあるのだ。
そういう意味で、真宗カウンセリングワークショップなど、できるだけゆったりと時間をとり、何を話しても大丈夫だという空間を作り、無理に仏法を持ち出さなくとも「人格を超えた(超個)」ところで仏性を共有できる場というのは、「今ここに居る人間」を大事にしている。
それに対して、「相手のため(尊重)に真実をわかって欲しい」と言いながらも、いつしか「聞いて欲しい」というこちら側の感情が前面に出てしまう場面を見る法座も在る。
「余計なことを言っていないで、一直線に向かってもらうために」という「配慮」からスタートしているんだろうが、いつしか「判ってくれない」相手を責め、自分の「思いどおりにならない」ことに苛立ち、相手の言い分を受け入れず…という「尊重」とは真反対の姿が現れる。
「私はこうしたいから」という風に、自分を尊重することも大事だろう。
無理に言いたいことを我慢して、自分がしんどくなることを進めるつもりも無い。
しかし、そこに少しでも「こう言われたら相手はどう思うだろう」という配慮が加われば…。
誰しも、「私はこうなんです」という自己を持っている。
それが相手に受けとめてもらえたときに、尊重されていることを感じられる。
そういう経験があれば、逆に相手も受け止めてあげれば「尊重されている」と感じてくれるのでは、と思いをめぐらすことも出来るだろう。
仏法というのは聞かせてもらう以外にない。
自己で積み上げていけるものではないのだから。
しかし、自分の中に「打ち出したい」ものがあるうちは、そちらに心が縛られ、聞いているようで聞いていない。
ひとつの方法は「あなたは聞けていない」ということをとことん知らせること。
もうひとつの方法は「打ち出したいもの」を徹底的に出してもらい、搾り出されたスポンジに水がしみこむように、すっからかんのところに聞いてもらうこと。
「聞くだけ」とは言いながら、なかなかそうはならないだろう。
そんな時、尊重してもらうことで一歩踏み出すことが出来るならば、お伝えしたい者こそ、じっくりと相手の方に向き合ってあげることが出来ればいいんじゃないだろうか。
と、ここまでは以前から課題にしていることであり、何らかの形でこういうことを実感できる場を作って行きたいなという気持ちはぶれていない。
その一方で、「法座で相手を尊重するということは」と考えたときに、やはり、今ここでの「信心獲得」が大事だという思いもある。
明日があると思えるのか…ということならば、たとえ相手が拒否反応を起こしていようとも、「今だ、今だ」と勧めていくことに「相手を大事にする」という面があるのでは、と。
いくら、人間関係のところで「あなたが大事だから、無理しなくていいですよ」と配慮したところで、後生の一大事の解決が出来なければ、その方のためになるんだろうか。
ただ、相手に優しくすることが大事なのではない。
それはそれで判る気がする。
では、どうするのが「尊重」ということになるのか。
もちろん、「後生をはっきりとしてもらう」ことができれば、それに勝ることは無い。
その道筋として、「聞いて欲しいという気持ち」をいかに伝えるかと、そのために私が出来ることは何かを、丁寧に丁寧に見つめていく。
ここで勘違いしてはいけない大事なことがハッキリしてくる。
「聞いて欲しい」という気持ちを満足させることが大事じゃない。
あくまで「聞く」のはその方。
おしつけて「こう思いなさい」というのは愚の骨頂で、その延長で「さあお念仏しなさい」とか「お仏壇の前に出て」とか指示的に振舞うのはいかがなものだろうか。
法に触れ、縁に触れて、自分が一歩踏み出していく…
そこにしか法を「聞く」ということは無い。
だれも責任を取れない。
唯一「どうか我が名を称えておくれ」といえるのは阿弥陀仏だけなのだ。
そのことを口伝で、また自ら称名することで、伝えていくだけ。
と、ここに話が帰結する限り、私のあさはかな「配慮」や「尊重」など吹っ飛んでしまうのだが…
しかし、人間関係の中で動いていく限りは、人間的な「尊重」も捨てることは出来ない。
また、いくら法のためとはいえ、尊重のかけている場面は辛く感じる。
うん、法のことは阿弥陀仏に任せればいいのだから、私は私の動けるところで、「尊重」を求め続けてみよう。