コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

「尊重」をめぐる話 -1

2009-06-13 00:21:30 | 日常雑感

先日書いたブログで「尊重されている」と言うことに触れましたが、そのことでいろいろつながってきていることがあります。
それは法座のことにもなりますし、親子コミュニケーションことにもなりますし、ネットコミュニケーションの話にもつながります。
私のことですからまとまらないのは覚悟の上で、書き始めてみようと思います。

 


「ユーザビリティ」と言う言葉をご存知だろうか。
ここ数年使われるようになった言葉で、もともとは無かった言葉。
まだ定義があいまいらしいが、「使い勝手が良い」「使いやすい」というときに「ユーザビリティが良い」と言う使い方をされる。
主に、パソコンあるいはインターネットに対して用いられ、よりよいWeb表示に対しての形容になる。

「使い勝手が良い」ということは、どれだけ使う人のことを考えているか…ということになるんだろうが、これが結構難しい。
ある人は、見た目ですぐわかるようにイラスト中心のものが「使い勝手が良い」と判断するかもしれないが、そうすると表示を迅速にするためにはパソコンの能力やネット環境が整備されている必要が出てくる。
そういう環境の無い人にとっては「使い勝手が悪い」と言うことになる。
じゃぁ、逆に「文字中心」の物を作ろうとすると、その言語が分かる人にしか通用しなくなる。

最近だと、地図を表示するサイトに様々な情報を貼り付けることができるようになっている。
ある場所の地図を表示して、「この辺でおいしい店はあるかな」と探すならば、貼り付けてあるアイコン(印)をクリックすれば、その店の情報がわかったり、リンクが貼ってあったりする。
さらにごていねいに、クリックしなくても、マウスのポインタ(矢印)をそこに近づけるだけで、情報や写真が現れたりする。
ところが、逆に地図を見たい人にとっては、あちこちにあるアイコンが、道や建物や地名などの情報を隠してしまい、一見して目的を遂げることが出来なくなる。

場合によっては多くの情報を読み込むために、画像が表示されるまで数分待たないといけないことがある。
ちょっと地図を横にずらすたびにその時間がとられるのだ。

もちろん、設定を修正すれば、自分の使いやすいようにカスタマイズすることが出来る。
しかし、そのカスタマイズ方法を熟知する必要を、使用者に求める。

このように、ある情報提供者が「相手のためを思って」工夫することが、必ずしも「使い勝手が良い」と言うことにはならない。
こういう100%カバーすることが出来ない場合の良し悪しは、いかに多くの人にとって「良い」とするかで判断するしかなく、その多くは「情報提供者」の基準を元に判断されるだろう。

ここまで大きな話を続けるつもりは無く、ここからはもう少し身近なところの話にしたい。

先日、ある知人のブログに対して「あるときから急に見れなくなりました」という問い合わせがあったらしい。
私もいろいろと関わらせていただいているので、調べてみた。
最初はそのブログの提供者(業者)の問題だろうと思い、メンテナンスをしていたり、何らかの障害が出ているんじゃないかと調べた。
無事閲覧できている人もいるし、他にも閲覧できないと言う声も聞こえてくると、今度は見ることが出来ない人の環境に問題があるんじゃないかと疑う。

で、いろいろ情報を集めたり、いろんな環境で試したりしていくうちに原因と思われることに行き会った。
そのブログにリンクを張っているホームページがあるのだが、そこからブログを閲覧すると、元のホームページのメニューフレームを左に残した状態で、右側にブログが表示されるようになったいた。
それはメニューフレームが存在することで、すぐに他の情報に移動できるようにとの配慮だ。
さらに、ブログに使われる写真が、ブログの本文スペースギリギリの大きさの写真が貼り付けられていた。
それは少しでも大きな写真を使うことで、見る方に見やすく配慮してのことだ。

結果、メニューフレームがあることで、ブログに必要なスペースが十分確保できず、それでも小さな写真などならばレイアウトが自動補正されて大丈夫なところ、写真が大きいために補正が出来なかった…ということのようだ。

提供者が、ユーザーに対して「使い勝手、見易さ」を良くしようとした工夫。
そこには「配慮」がある。
しかし、結果として、使い勝手に問題が起こってしまうことがある。

この話は、ホームページとブログの在り方で、「閲覧してもらう」という一番の目的を重視することがハッキリしているので、現在はメニューフレームは削除され、写真も少し小さく修正されている。
(その製作者には、メニューフレームを使うことに意味とこだわりがあっただろうから、今後どういう形で利便性のバランスをとっていくか楽しみだったりします)
後で聞こえてきた声の中には、フレームがあるために環境によっては閲覧できなかった人もいたし、フレームを駆使することで大量のタグ情報を使い、また写真という重たいものを使うことで、全部表示されるまでに時間がかかった方も居られるだろう。

このあたりのことは、10年ほど前に、知人から「ネット弱者を意識する必要がある」と聞かされてきたから、私はこだわってしまうところがある。
(以前このブログでも話題にしています「真カ研ホームページ完成 ~実はこだわる人なんです~」)

まずは「配慮」出来ているかどうかを自覚してみる。
それが、こちら側の思う「配慮」なのか、本当に相手を尊重できているのかを考えてみる。


じつは、ここまで書いたことは前置きで、本当に書きたいことはこの後にあります。
が、今日はここまで。


春期研修会 5回目

2009-06-10 19:37:53 | ミニカウンセリング

春期研修会も早くも5回目、前半戦の折り返しです。

私は先週の研修会後に愛媛と広島の出張があり、さらには週末に東京へ行くなど、その全部が運転しての移動でしたのでかなり身体を酷使した感がありました。
一方で、東京で参加した法座で聞かせていただいた法話を浴びて、結構気持ちはいい感じでの参加です。
最初のチェックインではそのあたりの出来事を少し話が出来ました。

しばらく休まれてた方も参加され、今期初めて全員参加(1回目も全員でしたが、2回目から参加された方も居られるので、これでフルメンバーになりました)
それぞれの方が、それぞれの思いを抱えて参加されているのが面白いですし、机上じゃなく生身の「関わり」だなとひしと感じます。

前半は蓄語録検討。
前回発表のペアが交代しての逐語です。
クライエントさん、カウンセラーさんともに経験者と言うこともありますが、クライエントさんはどんどん話が進んでいく、カウンセラーさんはうなづき・レスをしつつも話の邪魔にならないスタンス。
実践では見過ごしがちなところも、蓄語を見ながらだといろいろ気づくところがあります。

後半はペアを組んでのミニカン実践。
ペアを組んだ方とは何度か法座でごいっしょさせていただいている方。
最近法座に出られて自分自身のこと、関わりのあった方との関係など、動いているものを話してくださいました。
交代して私がクライエントとして話するときには、ミニカンが始まるまで持っていた「話したいこと」と今カウンセラー役として聞いたところでの「話したいこと」が混在していました。
まぁ、流れのままに終着点を考えずに話していこうと。

で、いろいろ味わったことがあります。
それは、ここ数日いろん形で私の中に渦巻いている思いとリンクするものです。
「相手の尊重」ということ。
このこと自体は改めて書こうと思いますが、今回のミニカンでのところで。

カウンセラー役の方は、この春から初めてミニカンを経験されている方です。
うなづきやレスの”形”はこれから経験されていくところです。
そういう形が未熟だと、「尊重されている感じがしない」かというとそうではないなと。
相手の方の話を受けて言いたかったことを話していましたから、カウンセラーさんは興味のある話題になったんだと思います。
振り返りのときにご本人もおっしゃってましたが、「聞き込んでいた」と。
そのときに外から見た”形”のところでは、この研修会で学んでいることを活かせていなかったと思います。
しかし、「あぁ、話を聞いていてくれる」「興味を持ってくれている」という感覚が話し手の私に伝わってきます。
そのことをして「あぁ、尊重されているな」ということを感じました。

カウンセラーとクライエントの関係において、必ずしも話の中身に興味を持つことばかりじゃないと思います。
そういうときでも、中身でなくクラエントの心の動きを”聞いていく”ことは経験を重ねて出来ることでしょうし、相手を尊重すると言う意味では気持ちを聞いてあげることは基本でしょう。

でも、そういう入り口のところだけでなく、「聞かせてください」というものが伝わってくるときがあります。
そういうときに話するのは気持ち良いんですよね。

で、聞いてもらうと次々と話したいことが湧き上がってくる。
そういう気持ちを持っていることを自分で気づく。
言語化して口に出す。
耳からもう一度聞かせてもらう。

「上手にカウンセリングしてもらう」ということ以上に、「ここにいて聞いてくれる」ということが私にとって大事な時間だったなと。

一見、「相手が誰であろうと、どういう状況だろうと、話したいことがあれば話せるんじゃない?」とも取れるかもしれませんが、やはりこれは「この時間・この場所・この人」という状況と、このわたしが響きあって生まれたものだと思います。

聞きあう…響きあう…育ちあう…

そして、この場を作り上げたもの…
こういう話をしたいと思わせた、相手の方が話してくださった法座の話、私が体験してきた法座の話、それぞれの生まれてからおかれてきた環境や経験、そういう偶然の産物が、ただ偶然ではなく、縁である。
その縁を通して、確かに聞かせてもらう仏願。

真宗カウンセリングが、わかりやすい形で表出した時間でした。


捨てるもの

2009-06-08 23:34:54 | 真宗

私の義父は新潟の僧侶です。
今こそ合併して「市」になっていますが、つい最近までは「村」と呼ばれていた所にある山寺。
多くの門徒さんは、実家は村に残し、生活基盤は関東に置いたりしているそうです。
そこで、年に一度、東京の築地本願寺で関東の門徒を集めて法座が開かれます。

先日、その義父の関東に住む弟さんが亡くなられ、生前に「その法座で会おう」と兄弟と話されていたということで、その義叔父を偲ぶ集まりも兼ねられるので、私家族を連れて参加してきました。

そのときのご法話で聞かせていただいたお話は、お釈迦様がお悟りを開かれたときのお話。
そのときの言葉がこれです。

 我 今 甘露の門をひらく
 耳のあるものは聞け
 ふるき信仰を捨てよ

お釈迦様が開かれたお悟りを、衆生に伝えることが出来るか迷われるのですが、留めては置けないと伝えることを決意された言葉でもあります。

ご法話では、迷信や、死者供養の考え方から離れるということで「古き信仰を捨てよ」という言葉を引用されていましたが、私はこの言葉に勝手に別の思いをめぐらせていました。


「我 今 甘露の門をひらく」ということばで、真実の法が完成し、整っていることを宣言され、
「耳のあるものは聞け」とこの私に向けて「受け取っておくれよ」のお心が示されます。
しかし、この私と言うものは、自分の都合の良い聞き方をしてしまう。
真実の法でさえ、自分に取り込み、計り、謀ってしまう。
また、すでに聞いている、聞けているとうぬぼれて、これで良いと自分の信を護りにかかってしまう。
そういう、自分中心の思い、我執をして「捨てよ」と言われているんじゃないでしょうか。

なにも、今までの信仰は間違っているから改宗せよとか、外にある様々な考え方を批判していることではなく、この私自身の中にあるものを振り捨てよと教えられている。
まさに仏敵がそこにでんと居座っていることを見透かされている。

求道者は求めている”つもり”の心、獲信者は仕上がっている”つもり”の心。
あるいは、自分はまだ求道者だ、いや獲信したなどという、状況変化にこだわる心。
そんな内向きの思いを断ち切り、開かれた甘露の門より届けられる真実を、ただ「聞け」とおっしゃられる。

じゃあ、自分には耳があるのだろうか…などとまた内向きにこもってしまいがちだが、この聴く耳さえいただきもの。
自分で判断するのではなく、このいただきものの耳で「聞け」とのお示し。

そう、耳は外に向いているもの。
うちに向けても何も聞こえるはずが無い。
すなわち、自分への執着を振り捨てて、ただ聴聞。

もう、こちらがどのように心をめぐらせ、どのようにこだわっていくかをすべて見透かした上で、この3行の言葉に集約されていると言う…。


今回のご法話では、このお釈迦様の言葉を受け取ってくださいと、みんなで何度か唱和させていただきました。
いっしょに教えていただいたのは四法印のおはなし。

 諸行無常
 諸法無我
 一切皆苦
 涅槃寂静

あたりまえのことなのに、あたりまえと思えない顛倒したこの身に、確かに「耳のあるものは聞け」と真実を届けていただきました。

それに答える私は、ただ、ただ…
南無阿弥陀仏


不思議なことで、まったく別の場所で別の集まりをされていた「かりもん」氏がこの言葉をブログで話題にされていました。
そういうルートを通って、またこの言葉が深く染み込んできます。

百重千重囲繞して よろこび護りたまうなり…

お勤めの中の和讃の言葉が真実となって響いてきます。

 


春期研修会 4回目

2009-06-05 00:47:28 | ミニカウンセリング

春期研修会 4回目

今回から逐語録検討が始まります。

あらかじめテープ(最近はボイスレコーダーなどが使われますね)に録音した15分間のミニカウンセリングを、テープ起こししたテキストを見ながら聞いていきます。
このときにカウンセラーの立場になって、クライエントの感情の動きを追っていきながら、自分ならどのようにつぶやくだろうか、ここでレスを返すだろうか、カウンセラーさんのうなづきやレスの具合はどうかなどを書き留めていきます。
次に参加メンバーでそれぞれの感想や着目点を出し合っていき、代表者がそれをまとめて発表。
最後に先生が、押さえた点を教えていただき、自分の抜けているところ、受け取り違いをしているところを確認します。

今回のクライエントさんの話は、テキストで追っていくと心の動きがよく判りました。
話の芯がハッキリしていることと、主張したいことが感情の言葉になって出てきていること。
話題が変わって行っても、そこから元に戻っていくところ…そこに主張の根っこが見えてきます。

おもしろいもので、「あぁ、ここを受け止めて欲しいんだ」というキーになる言葉を、カウンセラーさんがレスしそこなっていると何度も同じ言葉が繰り返されてきます。
何度目かでカウンセラーさんがそのキーワードを拾い上げると、安心したように話題が進んでいきます。
カウンセラーさんの感想によると、そのレスをしたときにクライエントさんの話し方に変化があったそうです。
やはり「これを受け止めて欲しい」というところに注意を向けることは大事ですね。

ともすれば、話題の流れをいっしょう懸命に追いかけていきがちですが、その話題を通じて「聞いて欲しい主張」があるんですね。
それが感情の言葉となって出てきたら、拾い上げていくことで、クライエントさんが再び自分でそこ言葉を受け止めて、味わって、更なる「主張の芯」に近づいていく。
ここを、本人の言葉でなく、カウンセラーの言葉に置き換えてしまうと、クライエントさんは自分の主張と比べてしまったり、悪くするとその言葉に引きずられて「主張」がぶれて、見失ってしまう。
カウンセラーの言葉を刷り込んでしまって、もうそこまで出てきそうになったものが引っ込んじゃうんですね。
これが力のあるカウンセラーさんだったら、そのクライエントとの面談の歴史から、本人の言葉に出来ない感情をも汲み取ってレスしていくこともあるかもしれませんが。
ミニカウンセリングであるならば、やはり「今のクライエント」を大事にしていくうえで、言語化された言葉をそのまま返していくのが大事だと思いました。

たまに話題ばかり飛び出してきて、なかなか感情の言葉が出てこないこともあります。
私がクライエント役をするときにも経験するのですが、それは感情が動かないのじゃなく、感情の言葉を言語化するために、またより正しく受け取ってもらうために、そこまでの流れや状況を説明したいんですね。
ここはカウンセラーは待つ。
変に感情を想像して「それで悲しかったんですか?」などと先走りするとろくなことがありません。


と、今回がそうだったと言うことじゃなく、久しぶりに逐語録検討に参加して、今まで体感してきたことを反芻して味わっていることを書いてみた感じです。

同じ逐語録検討であっても、僅かであっても経験を重ねてきていることで、私の中に積み重なってきているものがあるかもしれません。
もちろん、うぬぼれは厳禁ですが。

後半はペアを組んでのミニカウンセリング実践。
今回は参加者が奇数人数だったので私はタイムキーパーでした。

実践できなかったのは残念ですが、この時間、この空間にいることで、ゆったりと味わっている私がいました。
その味わいの中にはポジティブなものもあれば、関連することから一転ネガティブに陥ることもあります。
でも、その両方が、「今、ここの私」であることがはっきりしていますので、心の落ち着きどころがありますね。

さて、そんな自分とゆったり向き合える時間でもある、真宗カウンセリングワークショップが後1ヶ月と近づいてきました。
まだ定員までは空きがありますので、ぜひお申込ください。
1泊2日、少ない人数でじっくり過ごす時間は、普段の生活では味わえないものがあります。
気軽に、体験してみてください。

第4回真宗カウンセリングワークショップ 京都 7月4・5日


コミュニケーション論

2009-06-01 23:30:55 | コミュニケーションワーク

今日は仕事の関係で、京都市内の数箇所を自転車で移動していました。
心地よい気候(ちょっと汗ばむくらい)のなかを、青空を見上げながらお寺やビル街などの混在した「京都らしい」ところを走っていきます。
そんな中、前回書いた会議のコミュニケーションのことをいろいろ考えていました。

コミュニケーションをとろうとするときに、大きく二つの事が関係者の中で流れていく気がします。
ひとつは「出来事」、もうひとつは「感情」です。
相手に何か伝えようとするときに、このどちらを受け止めて欲しいのか…また相手がどちらを受け止めたのかでコミュニケーションの流れが違ってきます。

たとえば、前回書いたところで言うと
「どうして今までと違うやり方に変わったのですか」
という質問の場合、「出来事」で行くならば「やり方が変わったことの是非」になりますが、「感情」で言うならば「変わった事が嫌」「変わって戸惑っている」「変えて欲しくなかった」と、様々なものが奥底に潜んでいます。

これに対して「こういう理由で変わった」だとか「決めるときに説明した」というような「出来事」に対する回答は大事ですし、これが正論ならば余計に相手は「出来事」に対して一段落つけ、納得なり次の段階の質問なりに移っていくことが出来るでしょう。
しかし、そこに「感情」をわかって欲しいという気持ちが残っているならば、まったく受け止めてもらえていないことに、ますます感情が渦巻いてしまいます。

私は、ミニカンやエンカウンターを通じて、出来事を話すときでも、その時々に湧き上がってくる感情があれば、出来るだけそれを言葉にするようにしています。
そうすると、相手の方がその「感情」を受け止めてくれるんですね。

ですから、相手に伝えたい人は出来るだけ「感情」を言葉にしてみる。
伝えられる側は、その「感情」の言葉を受け止めてみる。

実際に「やり方が変わった」ということはひるがえらなくても、「嫌だと思われたんですね」「戸惑っておられるんですね」「変えて欲しくなかったんですね」という”受け止め”を経た上で「でも、こういう理由で変わったんです」と返していけるならば、一歩進めると思います。


また、もうひとつ大事なことに「最後まで聞く」ということがあります。
相手が言い切らないうちに、反論をしてしまう場面がよくあります。
やはり自分にとって「嫌なこと」を延々と言われ続け、早くそれをさえぎってこちらの言い分を返したくなるのは当然でしょう。
しかし、多くの場合、相手がまだ言い切っていなければ、こちらの反論を聞いたうえでも、またもとの話題に戻されて「言いたい気持ち」を成就させるまで終わらないことが多いと思います。
じっくり腰をすえて「聞ききる」事をした上で、「こちらも言わせてもらっていい?」と確認して進めていければ、何かが変わると思います。

逆に話し手が言い切る前に、相手が動き出したときは「ごめん、まだ言い切ってないからもうちょっと言わせてもらっていい?」と意思表示をできれば、相手も気づいてくれると思います。

日本人って(べつに日本人にくくる必要もないんですが)、「阿吽の呼吸」とか「暗黙の了解」とか、はっきり表明しなくても「わかってくれているはず」でコミュニケーションを進めてしまいがちです。
そういうのを美徳としているのかもしれません。
でも、そのことでお互いが「言い切らない」まま話が進んでいけば、結局堂々巡りを繰り返します。

ミニカウンセリングで、話し手と聞き手を明確に分けて、コミュニケーションを体験するのはすごく大事なことだと思います。
まずは、そういうコミュニケーションが上手に出来るひとに「聞いてもらう」体験をして、「言い切る」ことがいかに気持ち良いか知ってもらえれば素敵だと思います。

親子の関係でも、職場の関係でも、コミュニケーションであるかぎり、これは大事なことですね。

幸い、私は多くの方とのご縁で経験してきたことが、今は当たり前のように感じています。
でも、最初は当たり前じゃなかった。
知っている人との出逢いがあり、教えを受けて、体感できたんですね。

いろんなところで機会がいただけるならば、私が得たものを共に体感する集いをどんどん開いていきたいですね。
関心のある方は、遠慮なくご連絡ください。
プロの講演家じゃないですから、気軽にお手伝いさせてもらいますよ。

連絡先 manu.takahashi@nifty.ne.jp