ときどき森へ・・・sora日和

~ by 凪 ~
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奈良の旅 志賀直哉旧居 中へ・・・

2015-02-15 07:08:15 | まとめて 国内の旅






 




























旧志賀直哉邸は、昭和初期に志賀直哉自身で設計したものです。
数寄屋風の造りですが、洋風の様式も取り入れた当時としては非常に進歩的で合理的、美的な工夫を随所に凝しているのが特徴です。
本学園では、「旧志賀直哉邸」を昭和53年に厚生省(現厚生労働省)より譲り受けました。
平成12年に国の登録有形文化財(第29-34~36号)として認定されたこの邸宅は、広く一般の方々に公開されています。また各種公開講座の開催や本学園が設置する各学校の生徒・学生等が気軽に利用できるセミナーハウスとして用いられています。

志賀直哉と奈良

邸内内観
大正14年(1925年)、 京都・ 山科から奈良・幸町に居を移した志賀直哉は幸町の借家で4年間を過ごした後、この上高畑町に宅地を求めます。自ら設計の筆を執り、友人の画家・浜田葆光に紹介を受けた京都の数寄屋大工の棟梁・下島松之助に邸宅の建築を依頼しました。

大正元年から始まった自身の真のありかを求め続ける彷徨の過程で、東洋の古美術と向き合った直哉は、大正15年には美術図録「座右宝(ざうほう)」を編纂しました。昭和4年に移り住んだこの上高畑の邸宅は奈良公園に隣接し、御蓋山、春日山、若草山、高円山などを借景とし、自然の風景に恵まれ、静寂でしかも明美です。直哉は、奈良特有の自然美と静寂に心をひかれ、執筆活動を行い、昭和12年には長編小説「暗夜行路」を完成しています。

この地はまた、歴史的な古寺社を訪れるにも近くて便利であり、古美術の研究をするためにも理想的な土地でありました。

志賀直哉が壮年期の13年間(大正14年4月から昭和13年4月)を過ごした奈良での暮らしは、多くの文化人たちと芸術を論じ、時には遊びに興じて、友人・知人たちとの心の交流を大切にした時間であり、家族の平和と健康を望み、子供たちの家庭教育を行い、家族の絆を育んだ生活でした。

「兎に角、奈良は美しい所だ。自然が美しく、残っている建築も美しい。そして二つが互いに溶けあってゐる点は他に比を見ないと云って差支えない。今の奈良は昔の都の一部分に過ぎないが、名畫の殘欠が美しいやうに美しい。御蓋山の紅葉は霜の降りやうで毎年同じやうには行かないが、よく紅葉した年は非常に美しい。5月の藤。それから夏の雨後春日山の樹々の間から湧く雲。これらはいつ迄も奈良を憶う種となるだろう」直哉は随筆「奈良」(志賀直哉全集7巻)の最後にこのように書いています。

直哉の奈良での13年間の生活は彼の生涯の中でかけがえのない時間となっていたのではないでしょうか。

奈良学園セミナーハウスホームページより


ちょうどセミナーの休憩時間とかさなったから、食堂も見せていただいた。写真もどうぞと仰っていただいたけれど、セミナー参加の方々が大勢いらしたので遠慮した。


マンションはどでかいけれど、ちっこいお部屋がちっこくあって、ここぶち抜いたら4Lが3Lになるけれど、ここ広くなるよね?なんてほざいている暮らしだから、迷子になりそうだった。


2014 12/21~22

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