カラダよろこぶろぐ

山の記録と日々の話

偲ぶ夏 2011

2011-08-24 | イワテケン

2011年のお盆は特別な帰省となりました。

前回時間がなくて廻れなかった、どうしても見ておかなければならない場所へ。


まずは「普代浜」
海岸線の国道を歩いている写真ですが、右手の木々の色が変っているのが見えますか?
津波は正面からあの高さまできていたのです。
自分の身長の10倍もの黒い波、恐ろしいです。



浜の形はすっかり変っていました。


あれから5ヶ月、ずいぶん片付いているようですが・・・。
ダンナが子供の頃良く遊んだ浜ではなくなっていました。


海側から「普代水門 15.5m」を見た様子。
津波が来る前、浜からはあの水門ははっきり見えなかったのです。
がれきのあたりは一面松林、公営プールやキャンプ場がありました。


今回手元の写真を探しましたが、案外撮っていなかったようです。
少ない中から何枚か懐かしい写真が出てきました。
これは約20年前の賑やかな海水浴場だった普代浜の写真。
海の青さはかわっていませんね。


続いて「太田名部漁港」へ。

 
普代村は人的被害がほとんどなかったので、復興が早いように感じます。
漁港はちょっと見た目では普段と変らない感じにまで整備されていました。
ただ、食堂などは跡形もなく流され、公衆トイレだけがあの日のまま残されていました。
ここの食堂の「めかぶラーメン」美味しかったなぁ。


これが和村村長が「明治津波以上の高さは絶対に譲れない」と築いた「15.5メートルの防潮堤」です。
城壁のようです。

 
今まで昇ったことはありませんでした。
初めて昇ってみると、結構な傾斜だということがわかりました。


この15.5mの防潮堤により、村は助かりました。
と言っても津波の高さや強さなど、ある程度の予測は出来ても”絶対”はないのです。
防潮堤が高かったから助かった、とは言い切れない思います。
たまたまこの海岸線に到達した津波の威力が、他の地域より小さかったから?地形の関係?
本当に色々な偶然で難を逃れたのだろうと思います。

 
防潮堤から続く、神社へも昇ってみました。
こちらは更に急傾斜。思わず手すりにつかまりたくなるようですが、これだけの高さが海からすぐの場所にあれば、
逃げられる可能性は高いのでは?と思いました。


あの日、どんな思いで皆さんここから津波を見ていたのか・・・
あの日のことを思い出して言葉がありません。


(村の広報より)



赤線の中が今回被害にあったエリアです。


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そして更に先へ進みます。
この辺りでは被害の大きかった隣村「田野畑村」へ。
矢印の左方向に希少価値の高い「机浜番屋群」がありました。今はもう跡形もありません。


痛ましいです。


海岸線に立つ「ホテル羅賀荘」も3階まで被害にあい、現在営業不能状態。
被災地域の雇用問題、生活再建問題等急がなければならないことがたくさんあると思います。


あの穴が何か解りますか?


三陸鉄道のトンネルです。北リアス線は久慈駅~宮古駅まで。
久慈方面は野田玉川駅周辺が津波で流出、あとはここ島越駅周辺が流出の為一部区間のみの運転となっています。
村民の足、車を持たない私達の大事な帰省の足はなくなり、平日2往復だけの代替バスしかありません。

ここ「島越駅」は駅舎ごと流されました。
黄色いラインが線路のあった場所、あの高さまで津波に襲われ橋げただけ残り、線路流出。
いかに想像を絶する巨大津波だったかを思い知らされます。

 
在りし日の「島越駅」


破壊された島の越漁港。
駅前の海岸で盆踊りや海水浴を楽しむ家族連れの姿が、つい先日のことのように思い出されました。


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最終日、宮古市田老町の防潮堤へ。

 
万里の長城と言われていた防潮堤(10m)へ昇ってみました。
昇ってみると普代村のそれとは傾斜と高さが全く違う、という事を体感しました。



巨大津波はこの防潮堤を乗り越えた。



漁港側。


車の山



防潮堤内側の震災前


震災後

 
はためく国旗、「頑張ろう田老」の文字。

誰かが言ってた「爆撃を受けた戦後の焼け野原の様だ」
そうかもしれない、と思った。

地震の直後停電したので、津波警報や情報など知る手段もなかった人がほとんどなのでは、と思う。
そして”津波が来るかもしれない”と思っても、海岸線に近いところにいたらどうするのか?
高いところに避難、と頭で解っていても、実際20分以内に上がれる高台はどこにでもあるのだろうか?
今回、被災地域を歩いてみて逃げれることのほうが難しいのでは?と思った。

残念な結果になられた方々は本当に辛かっただろう・・・、と自然に込上げてくるものがありました。合掌。



十数年ぶりに駅目指して歩いたら、どこが駅かわからなくて?
駅舎がなくなっていたのだった。


在りし日の田老駅。津波は駅のホームも超えたみたい。



駅舎はなくても、線路が通じているところだけ1日4本程度、三鉄が走ります。
ここで送ってくれた義弟にさよならして東京へ戻りました。



真の辛さは断片的に見ただけの、よそから来た私たちには絶対に解らない。
ここに暮らす人たちにしか解らない、たった5ヶ月では癒える筈もない深い喪失感と悲しみ。

何か言葉にすると傷つけてしまいそうで、失礼なことを言ってしまいそうで上手く言葉に出来ないけど。
我々が考えるよりずっとずっと、皆さん辛くてたくさん我慢している。

結局ボランティアも何もできず、世話になってる岩手の人々に恩返しも出来なかったけど、
離れて暮らす私達も、せめて1ヶ月に一日でもいいから被災地に思いを寄せよう。
同じ空の下で生きてる、生かされていることに感謝しつつ。
一瞬にして日常がなくなるかもしれないのは、どこにいても一緒。次の一瞬は自分かもしれない。



緑が多くて明るくて、海も空も青くて、美味しいものが一杯あって、人がみんな温かくて親切で。
にっぽんの故郷、大好きな三陸。
いつかまた、ここに活気が戻りますように。

皆さんの笑顔が見たいから、これからも地道な支援続けます。