■メイン写真
燈明山から見た中山連山の満願寺西山と、中山ロックガーデンの露岩
■今回のコース
川西池田駅→釣鐘山→石切山→満願寺→燈明山→北公園・平井古墳群→大聖不動明王→
井植山荘→最明寺滝→宝教寺・七星堂→山本駅
宝塚市の中山連山はたいへん人気があり、歩く人が多いのだが、そのすぐ東隣にある
釣鐘山、石切山は、ちょっとマイナーな雰囲気があり、標高が低いことも手伝って、
人気の点では負けている。しかし歩いてみると、なかなかミステリアスで面白い。
JRの川西池田駅、阪急の川西能勢口駅、雲雀丘花屋敷駅のいずれからでもよいが、
今回は川西池田駅から歩いた。
阪急バスの豆坂口バス停のV字分岐で右に入り、簡易舗装のすごい急坂をへて、
釣鐘山の参道下に着く。「感謝坂」とされる長い長い石段が続く。
石段の途中にある馬頭観音像。
石段を登りきって振り返ると、大阪市内が見える。
すぐ横に、有刺鉄線のフェンスに囲まれた慈光会の空堂がある。
昭和の初めに空覚尼さんが出家し住んだ場所だという。信者さんたちと慈光会として活動された。
感謝坂から釣鐘山にかけての参道を含め、現在も慈光会の方々が守っているようだ。
藤棚をくぐり、先に進むと、行者供養塔の広場に出る。
かつて東麓の小戸の人たちが、お盆にここで火を焚いて、干ばつがないように祈願したという。
テレビ塔の横が、釣鐘山の山頂。
宝塚市の水準点が置かれた山頂からの眺め。
ここから先は、宗教色が消え、六甲山系をほうふつとさせる山道になる。
石切山のすぐ手前に開けた展望地がある。伊丹空港を飛び立つ飛行機が見えた。
すぐ先が三角点だ。山の名前は石切山だが、点名は長尾山。
三角点の先にも、さっきより小規模な展望地がある。
石切山の名の由来だが、どうも江戸時代頃、火打石を切り出していたらしい。
2mちょっとの高さの岩を見つけたが、側面に人為的な丸穴があり、トップには石を切り出す際の
矢穴の跡がみられた。
道なりに右にカーブしていくと、露岩の展望スポットに出る。
ここからは北側が開け、妙見山から明ヶ田尾山あたりの山並みが見えた。
固定ロープの坂を下り、シイ林の薄暗い分岐を左折すると、長尾台ふれあい公園に下りる。
しばらくゴルフ場横の舗装道を歩き、満願寺へ。
満願寺は、奈良時代の神亀年間(724~728年)、全国に満願寺建設をすすめた聖武天皇の
命により、諸国に満願寺を建立した勝道上人が摂津国の満願寺として開基した。
平安時代の安和元年(968年)に源満仲が多田に定着してからは、源氏一門の祈願所になった。
境内には、あのマサカリ担いだ"金太郎"の坂田金時の墓所がある。
源満仲の息子・源頼光の家来として、ともに大江山の鬼を退治したという伝説がある。
ちょうどいい時間になったので、境内にある喫茶坊「縁」で昼食をとった。
「お寺ごはん」という定食、牛筋すじカレー、喫茶・スイーツなどメニューは充実。
平日なのに客でいっぱいだった。
この日は「お寺ハンバーガー」をいただく。パティは肉ではなく、なんと車麩。これがじつに美味い。
満願寺の山門はユニークなデザインだ。
次に、燈明山へ向かう。舗装道から、旧・不動明王参道へとたどる。
送電線鉄塔がすぐ近くに立つ燈明山へはすぐだ。
私製の標識もあるが、燈明山の周辺は、もはや"勝手道"のオンパレードなので、
いろいろな道がつけられていて却ってややこしい。
100mも離れていない、中燈明山のプレート。ピーク感も、展望もない場所で、いかにも
"勝手山名"な雰囲気がプンプン。
さらに南へ50mちょっとで、一部ネット上では西燈明山とも呼ばれる岩峰の上に出る。
いわゆるピーク的な地形ではないので、ここを「山」と呼ぶのはどうかと思うが、
とにかく絶景を楽しめる、すばらしい場所であることは違いない。
甲山、六甲山系方面もバッチリ。
ふたたび勝手道を使い、いったん、北公園へ下りてみた。
そこには7世紀後半の平井古墳群があり、横穴式古墳の一つはすぐに見つかる。
旧・不動明王参道に戻り、大聖不動明王に寄り道。
不動明王は、大日如来の化身とされ、密教の中ではたいへん重要なキャラ。
ただ、この大きな石像は、大昔からここにあったものではない。
じつはこのすぐ近くに、元三洋電機の井植家所有の別荘「井植山荘」が
あるのだが、もともとこの山荘は明治時代の大阪財界の重鎮で、藤田財閥の藤田伝三郎が
造ったものだ。
ネットで調べてみると、藤田氏は廃仏毀釈で放出された仏教古美術品を多数、購入していた
らしい。大聖不動明王は、もとは奈良の内山永久寺にあった、室町時代のものという。
のちに山荘とセットで、三洋電機創業者の井植歳男さんに譲られたのだろう。
そうとなれば、井植山荘にも寄らざるを得ない。門までは見に行けるが、中は非公開。
ここは、私がサラリーマン時代に仕えた大BOSSも、何度か三洋さんからお呼ばれで
遊びに来ているところ。ペーペーの私が立ち入れる機会はなかったが、その段取りなどは
私がいっちょ噛んでいた。井植家の皆さん、今はどうしておられることだろう。
最明寺滝に回り込む。険しい岩壁に囲まれたパワースポットだ。
最明寺という寺は近くにないが、鎌倉幕府の執権・北条時頼に由来すると言われている。
時頼は30歳で鎌倉の最明寺(今は途絶)に出家し、最明寺入道時頼と号した。
諸国を巡って歩いたというから、ここにも来たのかもしれない。
滝の左手奥には岩屋があり、中に役行者像がある。
今でも、地元の信者の方々によってきれいに整えられている。
この日は管理人の方はおられなかった。いろいろ詳しくお聞きしたいこともあるのだが。
宝教寺の赤い橋を渡る。真言宗の寺というが、実際は朝鮮系の寺院である。
昭和元年に、李法善という人が造られたとの石碑が境内にある。
異国情緒がして興味深い。
宝教寺の長い長い石段は、天に続くよう。
最上部に、七星堂という名のお堂がある。眺めは抜群で、夜はさぞかし北斗七星が
綺麗に見えることだろう。
平井の住宅街に出る直前、自然に帰りつつある軽トラックの残骸をみつけた。
おそらく60年ほど前のクルマだろう。
短いルートで、途中で舗装道に出たりもするが、なんとも人くさいというか、さまざまな
民間宗教色の強い、るつぼのようなエリアで面白かった。
燈明山から見た中山連山の満願寺西山と、中山ロックガーデンの露岩
■今回のコース
川西池田駅→釣鐘山→石切山→満願寺→燈明山→北公園・平井古墳群→大聖不動明王→
井植山荘→最明寺滝→宝教寺・七星堂→山本駅
宝塚市の中山連山はたいへん人気があり、歩く人が多いのだが、そのすぐ東隣にある
釣鐘山、石切山は、ちょっとマイナーな雰囲気があり、標高が低いことも手伝って、
人気の点では負けている。しかし歩いてみると、なかなかミステリアスで面白い。
JRの川西池田駅、阪急の川西能勢口駅、雲雀丘花屋敷駅のいずれからでもよいが、
今回は川西池田駅から歩いた。
阪急バスの豆坂口バス停のV字分岐で右に入り、簡易舗装のすごい急坂をへて、
釣鐘山の参道下に着く。「感謝坂」とされる長い長い石段が続く。
石段の途中にある馬頭観音像。
石段を登りきって振り返ると、大阪市内が見える。
すぐ横に、有刺鉄線のフェンスに囲まれた慈光会の空堂がある。
昭和の初めに空覚尼さんが出家し住んだ場所だという。信者さんたちと慈光会として活動された。
感謝坂から釣鐘山にかけての参道を含め、現在も慈光会の方々が守っているようだ。
藤棚をくぐり、先に進むと、行者供養塔の広場に出る。
かつて東麓の小戸の人たちが、お盆にここで火を焚いて、干ばつがないように祈願したという。
テレビ塔の横が、釣鐘山の山頂。
宝塚市の水準点が置かれた山頂からの眺め。
ここから先は、宗教色が消え、六甲山系をほうふつとさせる山道になる。
石切山のすぐ手前に開けた展望地がある。伊丹空港を飛び立つ飛行機が見えた。
すぐ先が三角点だ。山の名前は石切山だが、点名は長尾山。
三角点の先にも、さっきより小規模な展望地がある。
石切山の名の由来だが、どうも江戸時代頃、火打石を切り出していたらしい。
2mちょっとの高さの岩を見つけたが、側面に人為的な丸穴があり、トップには石を切り出す際の
矢穴の跡がみられた。
道なりに右にカーブしていくと、露岩の展望スポットに出る。
ここからは北側が開け、妙見山から明ヶ田尾山あたりの山並みが見えた。
固定ロープの坂を下り、シイ林の薄暗い分岐を左折すると、長尾台ふれあい公園に下りる。
しばらくゴルフ場横の舗装道を歩き、満願寺へ。
満願寺は、奈良時代の神亀年間(724~728年)、全国に満願寺建設をすすめた聖武天皇の
命により、諸国に満願寺を建立した勝道上人が摂津国の満願寺として開基した。
平安時代の安和元年(968年)に源満仲が多田に定着してからは、源氏一門の祈願所になった。
境内には、あのマサカリ担いだ"金太郎"の坂田金時の墓所がある。
源満仲の息子・源頼光の家来として、ともに大江山の鬼を退治したという伝説がある。
ちょうどいい時間になったので、境内にある喫茶坊「縁」で昼食をとった。
「お寺ごはん」という定食、牛筋すじカレー、喫茶・スイーツなどメニューは充実。
平日なのに客でいっぱいだった。
この日は「お寺ハンバーガー」をいただく。パティは肉ではなく、なんと車麩。これがじつに美味い。
満願寺の山門はユニークなデザインだ。
次に、燈明山へ向かう。舗装道から、旧・不動明王参道へとたどる。
送電線鉄塔がすぐ近くに立つ燈明山へはすぐだ。
私製の標識もあるが、燈明山の周辺は、もはや"勝手道"のオンパレードなので、
いろいろな道がつけられていて却ってややこしい。
100mも離れていない、中燈明山のプレート。ピーク感も、展望もない場所で、いかにも
"勝手山名"な雰囲気がプンプン。
さらに南へ50mちょっとで、一部ネット上では西燈明山とも呼ばれる岩峰の上に出る。
いわゆるピーク的な地形ではないので、ここを「山」と呼ぶのはどうかと思うが、
とにかく絶景を楽しめる、すばらしい場所であることは違いない。
甲山、六甲山系方面もバッチリ。
ふたたび勝手道を使い、いったん、北公園へ下りてみた。
そこには7世紀後半の平井古墳群があり、横穴式古墳の一つはすぐに見つかる。
旧・不動明王参道に戻り、大聖不動明王に寄り道。
不動明王は、大日如来の化身とされ、密教の中ではたいへん重要なキャラ。
ただ、この大きな石像は、大昔からここにあったものではない。
じつはこのすぐ近くに、元三洋電機の井植家所有の別荘「井植山荘」が
あるのだが、もともとこの山荘は明治時代の大阪財界の重鎮で、藤田財閥の藤田伝三郎が
造ったものだ。
ネットで調べてみると、藤田氏は廃仏毀釈で放出された仏教古美術品を多数、購入していた
らしい。大聖不動明王は、もとは奈良の内山永久寺にあった、室町時代のものという。
のちに山荘とセットで、三洋電機創業者の井植歳男さんに譲られたのだろう。
そうとなれば、井植山荘にも寄らざるを得ない。門までは見に行けるが、中は非公開。
ここは、私がサラリーマン時代に仕えた大BOSSも、何度か三洋さんからお呼ばれで
遊びに来ているところ。ペーペーの私が立ち入れる機会はなかったが、その段取りなどは
私がいっちょ噛んでいた。井植家の皆さん、今はどうしておられることだろう。
最明寺滝に回り込む。険しい岩壁に囲まれたパワースポットだ。
最明寺という寺は近くにないが、鎌倉幕府の執権・北条時頼に由来すると言われている。
時頼は30歳で鎌倉の最明寺(今は途絶)に出家し、最明寺入道時頼と号した。
諸国を巡って歩いたというから、ここにも来たのかもしれない。
滝の左手奥には岩屋があり、中に役行者像がある。
今でも、地元の信者の方々によってきれいに整えられている。
この日は管理人の方はおられなかった。いろいろ詳しくお聞きしたいこともあるのだが。
宝教寺の赤い橋を渡る。真言宗の寺というが、実際は朝鮮系の寺院である。
昭和元年に、李法善という人が造られたとの石碑が境内にある。
異国情緒がして興味深い。
宝教寺の長い長い石段は、天に続くよう。
最上部に、七星堂という名のお堂がある。眺めは抜群で、夜はさぞかし北斗七星が
綺麗に見えることだろう。
平井の住宅街に出る直前、自然に帰りつつある軽トラックの残骸をみつけた。
おそらく60年ほど前のクルマだろう。
短いルートで、途中で舗装道に出たりもするが、なんとも人くさいというか、さまざまな
民間宗教色の強い、るつぼのようなエリアで面白かった。