■メイン写真
惟喬親王ゆかりの夜泣峠へ向かう途中、振り返ると比叡山が見えた
■今回のコース
貴船口駅→二ノ瀬→守谷神社→夜泣峠→向山→山幸橋→氷室町(氷室跡、氷室神社)→
城山→京見峠→秋葉神社→釈迦谷口バス停
京都トレイルを、無理のない日帰り日程で区切り、ゆるりゆるりと歩いてきた
京都トレイルも、後半にさしかかりつつある。
この日は二ノ瀬の守谷神社から氷室町、京見峠へと歩いた。
標高は低いが、アップダウンが多く、ボディーブローのように体力を奪う区間といえる。
叡山電車の踏切を渡ると、惟喬親王を祀る守谷神社・その母を祀る富士神社が
ある。同敷地に合祀されている。
惟喬親王は、文徳天皇の第一皇子でありながら、皇位に就けず、晩年は雲ヶ畑などに
隠棲した悲運のプリンスとして知られる。
惟喬親王の母親は紀氏出身で、第四皇子・惟仁親王(のちの清和天皇)の母親は藤原良房の娘。
藤原一族が権勢をふるう中、この出自が明暗を分けた。
藤原良房は、皇族以外の人臣として初めて摂政となった実力者(当時は右大臣)。
なすすべもなかったのだろう。
わずかな登りで、夜泣峠に着く。倒木で荒れている。
乳飲み子の惟喬親王が、乳母に抱かれて二ノ瀬に出るとき、ここで一夜を明かした。
親王が夜泣きしたため、乳母はこの峠にあったお地蔵さんに願をかけたところ、
親王は泣き止んだという伝説を書いた標識がある。
この伝説には異説もあるようで、母(乳母ではない?)とともにこの峠を越えたとか、
乳母が峠の松の樹皮をとって 親王の枕の下に入れたところ、泣きやんだことから、
以降、松の樹皮を煎じて子どもに飲ませると夜泣きに効果があるなどと伝えられるように
なったともいう。
また、親王が泣かれた時、立木の皮を剥いで背中に当てたり、敷物として寒さを防いだ
と、シンプルバージョンの話もある。
ところで惟喬親王は844年の生まれ。雲ヶ畑から二ノ瀬に移ったのは862年という。
本当に乳飲み子のころに二ノ瀬を訪ねているのか、また、夜泣峠から二ノ瀬までは
徒歩30分とかからないのに、なぜ、風が通り抜けるこの峠でビバークしたのか、
謎は残る。
向山の山頂。眺めがないのは残念。
京都トレイルは、かすかな杣道との分岐でさえも、デザインが統一された標識が
立っており、分かりやすい。
次の小ピークに、突然現れたベンチ。
京都市東北部クリーンセンターの散策路の終点になっている。
散策路は周回路になっている。間違えてセンターに下りないように。
少し眺めが得られるポイントがあり、そこから東北部クリーンセンターが見えた。
ぐんぐん標高を下げ、洛北発電所の前に出る。
山幸橋で、舗装道を渡る。
盗人谷へ向かう途中、右が黒い岩の断崖になっているところを通過する。
かつて畑だったような、開けた場所を通る。
歩きやすい山道が続く。
盗人谷の本流ではないが、シトシトと細い水流がしたたる滝があった。
盗人谷の本流には、3m以下の小さな滝が幾つかかかっている。
三ノ橋。かつては一ノ橋、二ノ橋もあったが、流されて今はない。
谷筋から離れると急登になるが、それほど長くない。小峠に着く。
小峠からは、氷室の里はすぐだ。
その名の通り、かつてここで氷が造られ、禁裏に献上されていた。
氷室跡が残る。
写真では少し分かりにくいが、窪地が見てとれる。
氷室神社。京都府の登録有形文化財だ。
禁裏の蔵氷にかかわった、清原氏が勧請したといわれる。
氷室跡、神社、池がセットで残る氷室の遺構は、ここしかないと言われている。
京都トレイルはこのあとしばらく舗装道を歩くことになるが、
すぐそばに三角点ピーク・城山があるので、寄らない手はない。
ただし山頂は展望もなく、雑然としている。
「城山」の名の通り、ここは堂ノ庭城という名の砦跡。
山頂は平坦に削られ、曲輪の形状がみられる。
はじめは、足利幕府菅領・細川晴元が築城したとか、足利義輝が三好長慶との戦の
ときに入城したともいう。
また、室町幕府の重臣・伊勢貞孝が反乱を起こしたときに籠城した城かもしれないらしい。
そののち、明智光秀が、自領の丹波に通じる道を見張るための砦を設けたとか、
光秀は、信長が上洛した後にも城を修築したなどといわれる。
京見峠。古来より交通の要所だった峠だ。
かつては夜景の名所だったが、植林が育ち、それほどの展望でも
なくなっている。
京見峠にある歌碑は、京都の詩人・島岡剣石(明治40年(1907)奈良県天理市生まれ)が、
ここで詠んだとされる歌が刻まれている。
「うつせみの寂しさ故におく山の辛夷は白く鎮もいて咲く」
峠にあった京見峠茶家も、営業をやめて久しい。建物はそのままだ。
個人的にはまだまだ先に行けるものの、距離的にみて、ここで下山することにする。
舗装道を歩き、長坂越えの道をそのまま下ってもよいが、
できるだけ山道を歩きたいので、秋葉神社に続く釈迦谷への道を歩く。
この道は、氷室古道と呼ばれている。
秋葉神社。和同年間の創建というから古い由緒なのだが、廃れきっている。
ちょっとおどろおどろしい雰囲気の階段を上り、廃墟の横を抜けると、
あまりに粗末な板張りの祠がある。
柏手を打ちながら、神様も泣いておられるだろうと思ったら、階段を下って
道路に出たとたん、小雨がパラパラと降ってきた。
折り畳み傘をザックから取り出す時に、やっぱり神様も悲しんでおられるのかと
思ったら、雨がやんだ。
釈迦谷口のバス停に着いたら、じきに市バスが来た。
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惟喬親王ゆかりの夜泣峠へ向かう途中、振り返ると比叡山が見えた
■今回のコース
貴船口駅→二ノ瀬→守谷神社→夜泣峠→向山→山幸橋→氷室町(氷室跡、氷室神社)→
城山→京見峠→秋葉神社→釈迦谷口バス停
京都トレイルを、無理のない日帰り日程で区切り、ゆるりゆるりと歩いてきた
京都トレイルも、後半にさしかかりつつある。
この日は二ノ瀬の守谷神社から氷室町、京見峠へと歩いた。
標高は低いが、アップダウンが多く、ボディーブローのように体力を奪う区間といえる。
叡山電車の踏切を渡ると、惟喬親王を祀る守谷神社・その母を祀る富士神社が
ある。同敷地に合祀されている。
惟喬親王は、文徳天皇の第一皇子でありながら、皇位に就けず、晩年は雲ヶ畑などに
隠棲した悲運のプリンスとして知られる。
惟喬親王の母親は紀氏出身で、第四皇子・惟仁親王(のちの清和天皇)の母親は藤原良房の娘。
藤原一族が権勢をふるう中、この出自が明暗を分けた。
藤原良房は、皇族以外の人臣として初めて摂政となった実力者(当時は右大臣)。
なすすべもなかったのだろう。
わずかな登りで、夜泣峠に着く。倒木で荒れている。
乳飲み子の惟喬親王が、乳母に抱かれて二ノ瀬に出るとき、ここで一夜を明かした。
親王が夜泣きしたため、乳母はこの峠にあったお地蔵さんに願をかけたところ、
親王は泣き止んだという伝説を書いた標識がある。
この伝説には異説もあるようで、母(乳母ではない?)とともにこの峠を越えたとか、
乳母が峠の松の樹皮をとって 親王の枕の下に入れたところ、泣きやんだことから、
以降、松の樹皮を煎じて子どもに飲ませると夜泣きに効果があるなどと伝えられるように
なったともいう。
また、親王が泣かれた時、立木の皮を剥いで背中に当てたり、敷物として寒さを防いだ
と、シンプルバージョンの話もある。
ところで惟喬親王は844年の生まれ。雲ヶ畑から二ノ瀬に移ったのは862年という。
本当に乳飲み子のころに二ノ瀬を訪ねているのか、また、夜泣峠から二ノ瀬までは
徒歩30分とかからないのに、なぜ、風が通り抜けるこの峠でビバークしたのか、
謎は残る。
向山の山頂。眺めがないのは残念。
京都トレイルは、かすかな杣道との分岐でさえも、デザインが統一された標識が
立っており、分かりやすい。
次の小ピークに、突然現れたベンチ。
京都市東北部クリーンセンターの散策路の終点になっている。
散策路は周回路になっている。間違えてセンターに下りないように。
少し眺めが得られるポイントがあり、そこから東北部クリーンセンターが見えた。
ぐんぐん標高を下げ、洛北発電所の前に出る。
山幸橋で、舗装道を渡る。
盗人谷へ向かう途中、右が黒い岩の断崖になっているところを通過する。
かつて畑だったような、開けた場所を通る。
歩きやすい山道が続く。
盗人谷の本流ではないが、シトシトと細い水流がしたたる滝があった。
盗人谷の本流には、3m以下の小さな滝が幾つかかかっている。
三ノ橋。かつては一ノ橋、二ノ橋もあったが、流されて今はない。
谷筋から離れると急登になるが、それほど長くない。小峠に着く。
小峠からは、氷室の里はすぐだ。
その名の通り、かつてここで氷が造られ、禁裏に献上されていた。
氷室跡が残る。
写真では少し分かりにくいが、窪地が見てとれる。
氷室神社。京都府の登録有形文化財だ。
禁裏の蔵氷にかかわった、清原氏が勧請したといわれる。
氷室跡、神社、池がセットで残る氷室の遺構は、ここしかないと言われている。
京都トレイルはこのあとしばらく舗装道を歩くことになるが、
すぐそばに三角点ピーク・城山があるので、寄らない手はない。
ただし山頂は展望もなく、雑然としている。
「城山」の名の通り、ここは堂ノ庭城という名の砦跡。
山頂は平坦に削られ、曲輪の形状がみられる。
はじめは、足利幕府菅領・細川晴元が築城したとか、足利義輝が三好長慶との戦の
ときに入城したともいう。
また、室町幕府の重臣・伊勢貞孝が反乱を起こしたときに籠城した城かもしれないらしい。
そののち、明智光秀が、自領の丹波に通じる道を見張るための砦を設けたとか、
光秀は、信長が上洛した後にも城を修築したなどといわれる。
京見峠。古来より交通の要所だった峠だ。
かつては夜景の名所だったが、植林が育ち、それほどの展望でも
なくなっている。
京見峠にある歌碑は、京都の詩人・島岡剣石(明治40年(1907)奈良県天理市生まれ)が、
ここで詠んだとされる歌が刻まれている。
「うつせみの寂しさ故におく山の辛夷は白く鎮もいて咲く」
峠にあった京見峠茶家も、営業をやめて久しい。建物はそのままだ。
個人的にはまだまだ先に行けるものの、距離的にみて、ここで下山することにする。
舗装道を歩き、長坂越えの道をそのまま下ってもよいが、
できるだけ山道を歩きたいので、秋葉神社に続く釈迦谷への道を歩く。
この道は、氷室古道と呼ばれている。
秋葉神社。和同年間の創建というから古い由緒なのだが、廃れきっている。
ちょっとおどろおどろしい雰囲気の階段を上り、廃墟の横を抜けると、
あまりに粗末な板張りの祠がある。
柏手を打ちながら、神様も泣いておられるだろうと思ったら、階段を下って
道路に出たとたん、小雨がパラパラと降ってきた。
折り畳み傘をザックから取り出す時に、やっぱり神様も悲しんでおられるのかと
思ったら、雨がやんだ。
釈迦谷口のバス停に着いたら、じきに市バスが来た。
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