ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

川崎市を語るのに欠かせないもの

2012年01月19日 00時25分29秒 | まち歩き

 川崎市の歴史を語るには、二ヶ領用水を欠かすことはできません。私が小学生であった1970年代後半に川崎市立の小学校で使用されていた社会科の教材においても、二ヶ領用水は重要な位置を占めていました。

 高津区に生まれ育った者として、二ヶ領用水は色々な意味において忘れてはならない物です。本来であれば、歴史を語らなければならないのですが、郷土史の素人である私が語るには躊躇します。そこで、今回はとりあえず、今年の1月2日、妻と溝口神社へ初詣に行った際に撮影した写真を掲載しておくこととします。

(OCNブログからgooブログへ移行する際に写真データ消失)

 溝口2丁目と3丁目とを分ける所にかかる橋です。2丁目側から撮影していますので、奥が3丁目ということになります。

(OCNブログからgooブログへ移行する際に写真データ消失)

 この橋の名称を記録していなかったので、機会を見つけて確認しておきたいと考えております。左側が溝口2丁目、右側が溝口3丁目です。どちらも静かな住宅地ですが、旧大山街道はすぐ近くです。

 旧大山街道の方角で撮影しましたので、右側が2丁目となります。左側の道路を通り、旧大山街道との交差点を左折すれば、旧高津村役場、現在の大山街道ふるさと館はすぐです。川崎市の高津区を初め、中原区や多摩区の歴史を知るために訪れるべき場所です。

 二ヶ領用水は、江戸時代、農業用水として建設されました。多摩区の宿河原に始まり、高津区、中原区、幸区を通ります。かつての橘郡の村々を支えるために重要な役割を果たしました。

 小学生の私は、自転車でこの二ヶ領用水のそばをよく走りました。高津区の坂戸、二子、溝口、中原区の上小田中、宮内、等々力、小杉御殿町などです。川崎市と言えば、石油コンビナートと公害というくらいで、この二ヶ領用水もドブ川と化していました。異様な臭いが立ちこめることもありましたし、何よりも水面を見ているだけで汚いことがすぐにわかりました。当時の私は、ここに魚が棲むことなどありえないと思っていたのです。

 それが、1980年代になってから徐々に変わってきました。今では魚が泳いでいます。きれいな水流となったのです。何匹もの鯉が泳いでいます。ヘドロまみれの川であったことが信じられないくらいです。

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