ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

国分寺駅で西武国分寺線の2000系を

2012年02月19日 14時00分16秒 | 写真

2011年10月28日の午前中、国土交通大学校で仕事をいたしました。終わって、中央線に乗ろうとした時に、西武国分寺線の2000系を撮影することができました。

 西武国分寺線は国分寺~東村山の路線ですが、実は西武鉄道で最も古い区間の一部で、川越鉄道が明治27年に開業させています。国分寺~本川越が全通したのは翌年のことです。当時、西武新宿~東村山は開業していなかったので、国分寺線が本線だったこととなります。戦後になって、東村山~本川越が西武新宿線に編入され、国分寺線が切り離されました。

 現在、一部の列車が本川越まで運転されます。左の写真は本川越行が発車するところです。ホームは5番線のみを使用しています。

 国分寺駅には6番線がなく、7番線が西武多摩湖線のホームです。国土交通大学校は多摩湖線の一橋学園駅の近くにあります。

 国分寺線で主に使用されるのは、西武で初めての4扉車である2000系です。基本的に西武所沢工場製ですが、一部だけ東急車輛製もあります。

 かつて、西武は自社の工場で車両を製造していました。しかし、新101系あたりからは外注が多くなっています。西武と東急との関係を多少とも知る者にとって、西武の車両が東急車輛で造られ始めたという事実は、当時、驚くべきことでした。その後、6000系、4000系、3000系が東急車輛で製造されています。西武所沢工場のほうは縮小されていき、20世紀が終わる頃には閉鎖されました。

 そういえば、昨日、東急車輛の鉄道車両製造部門がJR東日本に売却されることが報じられましたが、今後、東急線の車両はどこで製造されるのでしょうか。

 西武国分寺線に戻り、もう一枚、掲載しておきます。やはり2000系です。

 国分寺駅を発着する西武の路線は、国分寺線と多摩湖線の2本です。東村山市や小平市の周辺で非常に複雑な路線網となっている西武鉄道ですが、この2路線(どちらも基本的に単線です)はとくに複雑です。まず、国分寺線と多摩湖線のコースはそれほど離れていません。また、どちらも拝島線に接続します。多摩湖線は萩山駅で、国分寺線は小川駅で拝島線と接続しますが、萩山駅と小川駅は隣同士です。そして、決定的であるのが多摩湖線の八坂駅です。この駅のすぐそばで多摩湖線と国分寺線が交差しているのですが、国分寺線のほうに駅はありません。

 もっとも、違いもあります。国分寺線は6両編成の2000系で車掌も乗務しているのに対し、多摩湖線の国分寺~萩山(多摩湖線全線を走る列車はあまり多くありません)は4両編成の3扉車でワンマン運転です。国分寺駅でも発着場所が全く違い、国分寺線は中央線に平行していて中央線からも見ることができるのに対し、多摩湖線のホームは中央線からも国分寺線からも直接見ることができません。また、国分寺線の線路と多摩湖線の線路はつながっていません。

  (2011年10月28日掲載。2012年2月19日、修正の上で再掲載。)

  (2014年9月2日、動画追加)


YouTube: 西武2000系2053F(その1)


YouTube: 西武2000系2053F(その2)

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東京急行電鉄8500系8606F

2012年02月19日 12時17分17秒 | 写真

  〔以下は、「待合室」の「別室20」として、2010年12月19日に掲載したものです。〕

 1975年、新玉川線(1977年開通、現在は田園都市線の渋谷~二子玉川)用、そして帝都高速度交通営団半蔵門線乗り入れ用として、田園都市線と東横線に8500系がデビューしました。翌年に鉄道友の会からローレル賞を受賞しました。現在まで、東急がローレル賞を受賞したのはこの1回だけでしたが、8000系が受賞できなかったのがあまりに不可思議であるだけに、8500系の受賞は当然のことでしょう。8500系は、8090系や8590系とともに広義の8000系に入りますが、一般的には別の系列として理解されています。

 8500系は、1975年から1991年までの間に400両が製造されています。これは東急では最大の両数となります。長く田園都市線および新玉川線の主力として活躍してきましたし、東横線でも運用されてきました。また、現在、5両編成が大井町線で活躍しています。しかし、デビューしてから35年がたち、新5000系の登場とともに、既に東急を離れている車両もあります。一部は伊豆急行、長野電鉄、秩父鉄道、そしてインドネシアに譲渡されています。その間、半蔵門線開業時には、営団に半蔵門線用車両がなかったために同線唯一の系列としても走り、編成も当初の4両から増えて最終的には10両になり(田園都市線の発展を象徴するかのようです)、途中から軽量車体が登場し、VVVF車も登場し、ついには東武伊勢崎線・日光線でも走るようになりました。既に東急で古参の部類に入ってしまいましたが、田園都市線を通勤のために利用する者として、最後まで利用したいと思っています。

 さて、今回はその8500系です。今では珍しい編成とも言える8606Fを取り上げます。撮影日は2010年7月23日(前半の2枚)および同年11月26日(後半の2枚)で、場所は東京メトロ半蔵門線の青山一丁目駅(前半の2枚)および東急田園都市線・東京メトロ半蔵門線の渋谷駅(後半の2枚)です。

 私が乗った押上行が青山一丁目駅を出発しました。8500系8606Fのデハ8506です。1975年にデビューした8500系ですが、そのデビュー時からの車両は少なくなりました。

 8500系は、当初から黒地に白字の自動方向幕を備えていました。後に東急では黒地に白字の方向幕が当たり前となるのですが、8500系が最初です。また、側面も最初から自動方向幕です。非常に読みやすい方向幕であったという印象があります。その後、東急では駅名標や案内板も黒地に白字を基調とするようになりました。

 しかし、時代の流れとともに、方向幕ではなく、LED式の行先表示機に交換される編成が多くなりました。その中で、上の8606Fは自動方向幕のままです。私は、とくに大井町線について思うのですが、LED式よりも幕式のほうが読みやすい場合があると考えています。いかがでしょうか。

 側面の方向幕です。当初はローマ字が入っていない幕でしたが、いつの頃からかローマ字も入るようになりました。この電車は各駅停車なので種別が入っていませんが(ここが東横線、目黒線および大井町線と異なるところです)、急行、準急の表示もあります(かつては快速の表示がありました)。

 東武線直通の場合は種別が変わることが多いので、田園都市線上り電車が渋谷駅に到着すると行先表示機の表示が変わります。幕ですと時間がかかってしまいます。LED式が用いられるのはそのためでしょう。しかし、8500系の一部と8590系は東武線に直通しないので、自動方向幕のままでもよい訳です(もっとも、2000系はLED式を採用しているにもかかわらず、東武線に直通しませんが)。

 方向幕は、ファンの間で取り引きされたり、これを模した玩具が発売されるほどで(8500系についてもミニチュア方向幕があり、東急ハンズ渋谷店で売られています)、興味のある人が多いようです。私も、時折、方向幕が回転しているのを見ていることがあります。結構面白いものです。営業運転では登場しないような行先も設定されているからで、8500系の場合もそうです。おそらく、緊急時などに備えているのでしょう。現在はどうかわかりませんが、「九段下」、「神保町」、「梶が谷」、「たまプラーザ」なども設定されていました。

 あと何年、8500系は田園都市線と大井町線を走るのでしょうか。私が小学校1年生の時にデビューし、乗る機会が多かったこと、そして大学院生時代の5年間には通学のために特によく乗っただけに、私にとっては殊の外思い入れのある系列です。

 

 〔「待合室」に掲載した時には載せていなかった写真です。〕

  田園都市線には、2編成だけですが8590系・8090系が10両編成で運用されています。8694Fと8695Fで、どちらも東武線には乗り入れません。このうちの8694F(デハ8694が1号車)を、2010年7月23日に三軒茶屋駅で撮影しました。

 8590系・8090系とまとめて書いたのは、8590系がデハ8590形とデハ8690形、いずれも先頭車だけの系列であり、中間車は全て8090系であるためです。8500系とともに、広い意味では8000系に入ります。

 8090系は、日本で最初の軽量ステンレスカーであるデハ8400形(8000系。後にデハ8200形に編入)を基にした初の量産型軽量ステンレスカーで、1980年に東横線用として登場しました。先頭車は、5200系以来、久しぶりの非貫通型で、急行用として運用されました。しかし、東横線と横浜高速鉄道みなとみらい線との直通運転が行われることが決定されたため、編成替えをした上でクハ8090形は大井町線に転用されました。同線では、現在に至るまで5両編成で、専ら各駅停車として運用されています。

 8590系は、1988年、みなとみらい線直通用として東横線に登場しました。前述のように、先頭車だけの系列で、貫通扉が設けられました。中間車は全て8090系です。長らく急行として運用され、東横特急の運転が始まってからは特急から各駅停車まで幅広く運用されました。東横線での末期に、8590系・8090系のうちの何編成かが田園都市線に移り、また東横線に戻ったのですが、結局、東横線から離れ、田園都市線には10両編成2本が移り、残りは5両編成で大井町線に移りました。一部が秩父鉄道に移っており、また廃車となっている車両もあります。

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川崎市高津区溝口 旧大山街道散歩 その6

2012年02月19日 00時24分17秒 | まち歩き

 今回は久しぶりに溝口を取り上げます(また高津図書館なのですが)。

 田園都市線高津駅から国道409号線(府中街道)を西に進み、高津交差点を右折し、旧大山街道を進みます。程なく、高津図書館入口交差点に着きます。その左側に溝口緑地があります。かつて、文教大学の付属小学校があった場所です。緑地の入口にある国木田独歩碑は、昨年11月4日付で「川崎市高津区溝口 旧大山街道散歩 その3」(http://blog.goo.ne.jp/derkleineplatz8595/d/20111104)で取り上げていますが、その奥、高津図書館の建物の前にある岡本かの子歌碑は、コンパクトデジタルカメラでは上手く撮影できないため、掲載していません。たまたま、仕事の都合もあって昨日の午後に高津図書館へ行く用事がありましたので、Canon EOS Kiss X5を持ち、撮影を試みました。

 図書館の入口の前にある説明板です。文中の二子は溝口の隣の地名で、高津図書館入口交差点から旧大山街道をさらに多摩川のほうに進むとそこが二子です。現在は二子二丁目公園となっている場所に大貫病院がありました。かなり大きな病院で、大貫家が旧大山街道でも相当の名家であったことをうかがわせるものでした。

 私の写真の技術と、歌碑に彫られた字の読み難さとがあいまって、わかりにくいかもしれません。説明板によると、かの子の第三歌集から撰ばれた何首かが刻まれています。

 左下に「岡本太郎撰」と彫られています。日本を代表する前衛芸術家の岡本太郎です。彼の母親が岡本かの子、父親が岡本一平なのです。血は脈々と受け継がれてきた、ということでしょうか。

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