昨日(2020年6月14日)の16時付で、朝日新聞社のサイトに「斎藤環さん、コロナで誰もが気付いた『会うことは暴力』」という記事が掲載されました(https://digital.asahi.com/articles/ASN6D0R3YN6CUCVL02P.html)。有料会員限定記事のようですが、読んでいて「この気持ち、理解できる」と思いました。インタビューをした記者氏はスマートフォンのゲームにはまったそうです。私は、4月から今まで、スマートフォンのゲームに全くはまらなかったのですが、気分が落ち込んだりしたことは何度となくありました。
上記は斎藤環さんへのインタビュー記事ですが、「理解できる」あるいは「なるほど」と思った箇所はいくつかあります。勿論、全てにという訳ではありません。部分的であってもよいのです。気になる箇所を引用させていただきます。いずれも斎藤さんの言葉です。
「ひきこもりの人は楽しむことが苦手なんです。何かを楽しむ自分自身に対する自責感がある。『ゲームなんかやっている場合じゃない』と思ってしまう。なのでゲームより動画や映画を見る人が多い。それとスマホは本来、電話など通信の手段なので、ひきこもっている人は、外からの連絡を受けることも、自分から連絡することもなく、スマホ自体が必要ないのです。」
「『人に会う』ということは、ある種の『暴力』だからなのだと思います。どんなにやさしい人同士、気を使いあっていたとしても、相手の境界を犯す行為なので、その意味では、会うことは暴力です。それでもなぜ、人と人が会うのかと言えば、会った方が話が早いから。記者さんが取材をするのも、あえて言いますが、暴力なんです。会って相手に圧力をかけた方が、会わないより物事が前に進む。スカイプやズームだけだと、もどかしく感じる。」
「会議も、人と人が会うと、やっぱり話が早いし、効率が良い。なぜかといえば、暴力だから。この暴力の存在を、私はコロナ禍の中であらためて自覚しました。私が日々している会議、授業、診察。それらもまた、暴力なのだなと。私自身、そこに入る前に緊張したり、気が重くなったりする。でも、終わってしまうと、やってよかったという気持ちになる。その理由も『会うことの暴力性』から来ている。」
「会うことが呼び起こすうれしさと憂鬱(ゆううつ)さ、それらを併せ持つ、両義的な意味としての暴力です。(中略)『圧力』とも少し違って、『重力』の方が近いかも知れない。」
「パンデミックで明らかになったのは、ひきこもることで、社会貢献が出来る、ということ。ひきこもりが推奨され、誰もがみなひきこもった。今までのように、ひきこもりは、非生産的であり、価値のない人生だというのとは違った、また別の角度から、ひきこもることの価値が見いだされた。」
引用しすぎたかもしれません。その点はお詫びを申し上げなければならないでしょう。
でも、理解できるのです。共感という表現のほうが適切かもしれません。わかる人にはわかるという程度のものかもしれませんが、まずは感じることでしょう。
これだけの禍がもたらされたら「かつての日常を取り戻そうとすることがナンセンスである」とまでは言えなくとも、「どれだけの意味があるのか」と問い直すことは大切でしょう。取り戻せる部分とそうでない部分があるはずです。