先日、近所の書店で今野真二『うつりゆく日本語をよむ−言葉が壊れる前に』(岩波新書)を購入し、読んでいました。
その本の146頁以下に、大学における初年次教育の話が出てきます。私も勤務先で初年次教育に関わりましたし、今もその延長のような科目を担当しているので、気になるとともに、「やはりこのように考えている人はいるのだろうな。少なくないかもしれない」と思っています。
今野氏は、「初年次教育」について「社会での生活を視野に入れながら、大学での学びをなめらかに行なうことができるようなカリキュラムを大学一年生に用意するということだ。その中に日本語の運用能力が含まれていることが多い。レポートを書いてもらうと、教員に理解しにくい日本語でそれが書かれている、ということが二十年ほど前から話題になるようになった」と書かれています。
私が大学の講師として就職したのは1997年、今から24年前のことですからこの辺りの事情はよくわかりません。ただ、同書を読み進めて、考えさせられることがありました。それが添削指導です。
「添削されてもどってきた自分の文章をみて、添削されたかたちが、自分の書いた時点よりもよくなっていると素直に感じたとしよう。しかし、『原理面』において、添削の要点が理解できなければ、応用はきかない。今添削された文章とまったく同じ文章を今後また書くということは通常は考えにくい。そうすると添削は一回一回のものということになる。」
今野氏はこのように記します。レポートの添削に限った話ではなく、様々な場面において同じような光景が見られることでしょう。「一回一回のもの」は、言い換えれば「その場限りのもの」ということでしょう。
また、とくに初年度教育のためにTA(ティーチング・アシスタント)を導入する大学が多いことでしょう。しかし、実際のところ、成果はどの程度のものでしょうか。この点についても今野氏が記しています。長くなりますが引用しておきます。
「TAは担当教員から添削のポイントを説明してもらったうえで、添削をするだろうが、結局は担当教員とTAとがまったく同じ『リテラシー』をもっているとは限らない。むしろ異なるとみるのが自然だ。となると、この授業の添削は一貫した基準、一貫した原理でなされていないことになる。添削された結果、すなわち赤が入った自分の文章をみて、どこが改善点であるか全くわからないということはないだろう。ただ、結果からわかることは、誤字脱字を初めとした明白なことのみで、より深刻な問題点については、深刻なだけに、自身では気付かないだろう。説明のない添削は、あからさまなミスの指摘以上のことを書き手に伝えられないと考える。これは、投稿した論文が査読されて、理由説明がまったくなく『掲載不可』と伝えられるのと同じで、説明がなければ、『次』にはつながらない。」
悩ましいところです。
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