川崎市には7つの区があり、どの区にも市立図書館があります。高津区にも高津図書館(溝口4丁目)と橘分館(久末のプラザ橘の中)があります。橘分館のほうには一度も行ったことがありませんが、高津図書館には、小学生の頃から時折行って、本を借りたりしています(小学生時代は、小杉町3丁目にある中原図書館に行くことのほうが多かったのですが)。私のページに掲載している「川崎市市民オンブズマン条例についての考察―行政法学の観点から、そして川崎市民としての立場から―」という論文を書いたのは大学院修士課程1年生の夏で、何度も高津図書館に足を運んだものです。
さて、この高津図書館ですが、私が行き始めた頃は現在の溝口3丁目にありました。私のページのトップに載せている写真が、かつての図書館所在地を示していますので、一度御覧下さい。現在は大山小径、溝口南公園、高津こども文化センターとなっています。
いつのことかをはっきり覚えていませんが、高津図書館は高津小学校の裏に移転しました。元の所在地から旧大山街道を多摩川のほうに進み、高津交差点を越えて写真のたなかや(高津交差点付近には田中屋という名前の店がいくつもあります)の前を通ると交差点があり、左に曲がるとすぐに溝口緑地があります。その奥が図書館です。1枚目の写真の奥に写っているのが図書館の建物です。
図書館がここに移転する前には文教大学の付属小学校がありました。学校が集まっている地域は少なくありませんが(高津区では久本3丁目の久本小学校、高津中学校、川崎市立高津高校がそうです)、公立の小学校と私立の小学校が隣同士となっているのは珍しいかもしれません。しかし、文教大学の付属小学校は撤退してしまいました。図書館が現在の地に移ってから、おそらく30年くらいは経っているはずです。
さて、この高津図書館の入口に広がる溝口緑地の入口、旧大山街道のそばに「国木田独歩碑」があります。彼は1871(明治3)年、現在の千葉県銚子市に生まれ、1908(明治41)年、現在の神奈川県茅ヶ崎市で没しています。わずか37年間の生涯ですが、当初は詩人、その後は小説家として活動します。
自然主義文学の先駆者と評価される独歩は、よく武蔵野を取り上げていました。写真(説明板)にもあるように、1897(明治)30)年に溝口を訪れ、亀屋に宿泊しています。このことは「忘れえぬ人々」という小説の題材となっています。
この説明板にも登場する亀屋は1642年に創業しました。つまり、江戸時代から長らく続いてきたのです。後に亀屋会館となり、結婚式会場や宴会場などとして、溝口交差点(溝口2丁目)のそばで営業を続けてきました。私も一度だけ入ったことがあります。しかし、バブル経済崩壊の影響、結婚式場の衰退などもあったのでしょうか、2001(平成13)年に営業を終了しました。現在はマンションなどが建っています。
独歩の来訪は、川崎市ではとくに文学と深い関係を持つ溝口の重要なひとコマでした。おそらく、日本文学にとっても決して小さくない出来事であったでしょう。
そして、石碑がつくられました。題字は島崎藤村によるものです。1934(昭和9)年に建てられたこの石碑は、長らく亀屋会館の前に置かれていたのですが、閉鎖後に溝口緑地に移されています。
溝口緑地の入口に国木田独歩、奥(高津図書館の前)には岡本かの子の歌碑が置かれています。私は、時折、散歩としてこの辺りを歩き、明治時代の残り香を楽しんでいます。高津区に生まれ育ったことは、私のちょっとした誇りとなっているかもしれません。
余談ですが、溝口は、NHKの単発ドラマともなった「クラインの壺」(岡嶋二人)の舞台ともなっています。
交通:東急田園都市線高津駅から歩いて5分ほど。JR南武線武蔵溝ノ口駅北口からであれば歩いて15分ほど。川崎市バス・東急バスの高津バス停から徒歩で3分ほど。
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