〔今回は、「待合室」の第84回(2004年1月24日から31日まで)、第85回(2004年1月31日から2月8日まで)、第90回(2004年3月6日から13日まで)、第98回(2004年5月28日から6月4日まで)として掲載したものをまとめた上での再掲載です。なお、一部を修正しています。〕
2002年6月22日、当時の自宅から豊肥本線の敷戸駅まで歩き、そこから列車に乗り、豊後竹田で降りました。目的は岡城址です。
豊後竹田駅から市街地を抜け、急な坂を登ると、岡城址の入口に着きます。およそ1キロ半です。上の写真は、その入口にあった案内板です。次の写真が岡城址の案内図になります。
この案内板には岡城址の歴史なども書かれているのですが、それについては別の案内板に委ねることとします。今回の写真では最後となるものです。
岡城址といえば竹田市、竹田市といえば瀧廉太郎、瀧廉太郎といえば荒城の月です。この歌は、土居晩翠の作詞、瀧廉太郎の作曲で、土居晩翠がどこの城跡をイメージしていたのかわからないのですが、作曲者はこの岡城址をイメージしたものであると語っていたそうです。
瀧廉太郎は、1879(明治12)年に東京都芝区(現在は港区の一部)で生まれたのですが、官吏だった父親が直入郡長として転勤したことで、12歳の時に今の竹田市に移り住みました。ここで2年半を過ごしたそうです。今は「瀧廉太郎記念館」となっている屋敷から1キロほど歩けば岡城址に着きます。何度となく訪れたことでしょう
もともと、瀧家は日出藩の家老だったという家系です。その意味で、瀧廉太郎は大分県と強い縁で結ばれていたということになるでしょう。ちなみに、彼は1903(明治36)年、23歳で没しますが、その終焉の土地が大分市でした。
この日は晴れていたのですが、少し暗い写真になりました。岡城址の入口から久住の山並みを撮ったものです。岡城址は典型的な山城です。さらに、距離は短いがきつい坂を登ると、天候がよければ阿蘇の山並みなども見えます。
入口から城址に向かって歩きます。ごらんのように、天然の要塞というべき構造になっています。城があった頃には、外的からの攻撃を受けにくいという点ではよいものの、物品の輸送などには手間がかかり、建物の維持など大変であったことでしょう。撮影したのは6月下旬だったのでよかったのですが、冬だと大変だったかもしれません。このあたりは、標高が高く、山に囲まれていることもあって非常に冷えますし、雪も降ります。ちなみに、下のほうの民家はお土産屋さんです。
城址へ向かう道の途中です。白い紫陽花です。道端には、こうした花が多く咲いているはずです。
詳しい場所を覚えていないのですが、このような案内板がありました。これによると、1594年から1871年(あるいは1870年?)まで中川氏の居城だったのですが、やはり、明治維新、廃藩置県によって荒廃したようです。現在、岡城址には当時の建物が残っておりませんので(土台などは別です)、明治の早い時代に壊されたか、自然に崩壊したかのいずれかでしょう。瀧廉太郎が少年時代にどのような光景を目にしたのか、よくわからないのですが、彼が竹田に移り住んだ1890年代初頭には荒廃が相当に進んでいたものと思われます。
南方に広がる山です。大分県には杉林が多いのですが、竹田市もそうで、おそらく、以前ほどの活気がないものの、伐採などを続けているものと思われます。岡城址からさらに南方に進むと、標高452mの小富士山に至り、緒方町に入ります。
オリジナルの記事では、ここに写真が入っていたのですが、ファイルが壊れたらしく、再現できません。本丸跡から、おそらく東の方角、当時の朝地町、緒方町(いずれも現在は豊後大野市)との境界のほうです。私が立ったところも山でしたが、こうした山が続いているのです。
かなりの急勾配ですから、大阪城や姫路城などのような立派な石垣がなくとも、攻撃は難しかったはずです(実際には立派な石垣もあったのですが)。岡城が機能していた頃も、こうした緑の風景はあまり変わらなかったでしょう。
城址の東側から西側を写してみました。木々に囲まれている窪地のような部分を挟んでいます。向こう側に行くには、南側を回り込みます。手元に案内図などがないのでよくわからないのですが、岡城址は、地形の関係もあって東西に長い構造で、大手門と本丸は東側にあったようです。
岡城址の本丸近くです。御覧のように、山城とは言え、石垣があります。近くで見ると、大きな石が使われていることがわかります。どこから運んできたのかはわかりませんが、この山のものでないとすると、近隣の地形からすれば大変な作業であったはずです。
岡城址の住人(?)です。以前にも取り上げたことがありますが、今回は改めて、ということになります。
この写真を撮影してから気付いたのですが、白猫の右側に赤い杭が立てられています。土地の境界線を示すものとしてはおなじみです。複雑な権利関係でもあるのか、気になりました。よく見ておけばよかった、と思っています。
所々に、建物の土台などと思われる痕跡が残されています。しかし、昔の栄華を思い起こすのも少々難しくなっています。大阪城や姫路城などであれば、それなりに想いをはせることができますが、岡城址の場合、石垣くらいしか残されていませんし、城下町というべき豊後竹田駅周辺も寂れていて、賑わいはありません。平家物語に栄枯必衰という言葉が登場しますが、まさにそれが当てはまります。今、各地に高層建築物が存在していますが、将来、せめて痕跡を残すことができるのだろうか、などと考えていました。
私が訪れた時の竹田市は、まだ直入郡の直入町、久住町および荻町と合併する前のことで、人口は2万人未満でした。大分県内の市では豊後高田市に次いで人口が少なく、豊後高田市、津久見市とともに過疎地域に指定されていました。岡城が機能していた頃には賑わったのでしょう。しかし、自家用車を利用する者が増えた現在では、要所としての意味を失いつつあります。
岡城址には別の住人(?)もいます。撮影地点のすぐそばに売店(ホームページによっては茶屋となっています)があります。そこの店主の方が飼っておられるのか、元々住み着いているのかはわかりません。岡城址には、この日だけで三匹の猫がいました。昼寝を邪魔してしまったようです。
このあたりに二ノ丸があったようです。今は、建物は勿論、土台の痕跡すら見当たらないような所となりました。まさに「兵どもが夢の跡」という印象です(勝手に松尾芭蕉の句を借りましたが、彼のような人であれば、こんなことを感じ取ったのではないでしょうか)。ここでどのような生活が営まれていたのか、などと想像してみたのですが、時折、観光客の会話などが聞こえる程度で静かな時間がゆっくりと流れるこの場所では、人々の生活を軽く飲み込むような大きな波が常に存在するのかもしれません。
二ノ丸跡のあたりに、瀧廉太郎の銅像があります。岡城址が名曲「荒城の月」のモティーフとなったことはよく知られています。彼が竹田に住んでいたのは僅か数年間のことですが、後の彼に大きな影響を与えたのでしょう。瀧廉太郎は現在の東京都港区に生まれたのですが、その事実が忘れられるほど、竹田のイメージが濃厚となっているのです。竹田市も、夭折した彼の業績をたたえ、彼にちなむ声楽コンクールを開いていますし、岡城址近辺を中心に、彼にちなむまちづくりを進めてきました。
瀧廉太郎の銅像がある二ノ丸跡でしばらく風景などを楽しみ、石垣のある場所に戻ります。メモもパンフレットなども手元にないのでよくわからないのですが、大手門の跡あたりだと思われます。
どのあたりを撮影したのか、よく覚えていませんが、二ノ丸跡から西のほうへ移動したことは間違いありませんので、そのあたりではないかと思われます。本当に「夢の跡」という感じがします。
完全に、二ノ丸跡から西側に移った場所です。石垣に苔が蒸しているところに、時代の流れを感じます。しかし、このほうが、歩きながら物思いにふけったりするにはよいのかもしれません。私も、実際に岡城址を歩きながら、仕事のことなど忘れるようにし、一人で静かな時を過ごしました。私には、短くともよいからそうした時間が必要なのです。
公園として整備されていることが、歩いていてよくわかります。城址と言っても、完全に荒れ果てた場所もありますし、城があったとは思えないほど、木々が鬱蒼と茂っている場所もあります(こういうところも好きですが)。瀧廉太郎が歩いた頃には、完全な廃墟だったのではないかと思うのですが、私の印象では、良くも悪くも完全な公園である、というところです。
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