ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

高津湯の建物が解体される前に

2020年10月04日 10時55分42秒 | まち歩き

10月1日に「高津湯の建物が解体される」という記事を載せました。実際に解体される前に、写真として残しておこうと思い、近所で買い物をしてから高津湯の前を通りました。

何かの作業が行われているので、じっくりと見ることはできませんが、建物の壁に絵が描かれています。

 すぐ後ろにあった帝京大学医学部附属溝口病院は2017年5月に二子五丁目に移転しました。奥のほうに写っています。溝口三丁目の建物は解体され、現在は駐車場になっています。私がみている限りでは、まず満車になることがありません。バイクと自転車の駐輪場もあり、そちらは比較的利用率が高いようです。ちなみに、高津湯の隣には帝京大学医学部附属溝口病院の溝口研究棟があります。

 高津湯に入ることがないままに終わってしまいましたが、ここは薪でお湯を沸かしていたそうで、その薪の置場がトラックの背後、トタン屋根の小屋のような場所にありました。2017年9月に撮影した写真も「高津湯の跡」という記事に掲載していますので、比較していただければ幸いです。

 高津湯の入口です。「おふろ荘」として営業していた時には、前に案内板が置かれていました。入口の扉にも絵が描かれています。

 2017年9月に撮影した写真と比較していただくとおわかりと思いますが、左右の壁の一部が崩されています。右側を見ていただければ、脱衣場があったことがわかります。公衆浴場であった時代には壁と目隠しがなければ話にならなかった訳ですが、ギャラリーなどとして使うには不要であるということです。「おふろ荘」であった時には、外から脱衣場の様子がわかりました。敢えて、ここが銭湯であったということがわかるようになっているのです。左側も同様です。

 さすがに敷地の中に入るとまずいので、道路から撮影してみました。あれこれの絵が、壁に、扉に、窓ガラスに書かれています。この絵も一緒に解体されてなくなるのでしょう。実際に解体されるのがいつなのかわかりませんが、早めに目に焼き付けておくのがよいでしょう。ただ、この高津湯前の道は車一台分しか幅がないような狭い道路で(なのに一方通行ではありません)、付近には住宅も多いので、御注意を。

 なお、高津区内の公衆浴場は、現在営業しているところに限れば全て橘地区にあります。新作、千年、千年新町、子母口、久末、東野川です。いずれも溝口からは離れており、最寄り駅は武蔵新城、武蔵中原ということになりますが(久末のみ、横浜市営地下鉄グリーンラインの東山田駅が最寄り駅となるそうです)、これらの駅から1キロメートル以上離れている銭湯もありますので、地図などで場所を確認しておく必要があります。

 高津地区では二子新地駅の近くに湯プラザウェルネスという店舗がありますが、長期休業中です(昔ながらの銭湯という建物ではなく、ビジネスインウェルネスというホテルに併設されていましたが、ホテルは廃業したようです)。

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高津湯の建物が解体される

2020年10月01日 07時00分00秒 | 日記・エッセイ・コラム

 今回は完全な地元ネタです。うちから歩いて数分、川崎市高津区溝口三丁目、東急田園都市線高津駅のすぐ近くの話ですから。

 朝日新聞社が、2020年9月29日の9時付けで「消える昭和 銭湯『高津湯』の建物が取り壊しへ 川崎」として報じていました(https://www.asahi.com/articles/ASN9X6TWHN9WULOB011.html)。読み始めてすぐに「ついに」と思いました。

 かつて帝京大学医学部附属溝口病院(今は広大な駐車場)の裏にあった高津湯は、2015年12月に閉じられました。このブログに掲載している「高津湯の跡」で記したように、長らく「休業」するという趣旨の貼り紙がありましたが、廃業したことは明らかでした。記事によれば1960年代半ばに営業を始めたそうです。帝京大学医学部附属溝口病院よりも前からあったということになるでしょう。実は一度も入ったことがありませんが、前の細い道を通るのが

 解体されずに残っていると思っていたら、2019年4月、シェアオフィスの「おふろ荘」になりました。銭湯の構造をそのまま利用していることが外からでもわかりますし、そばを何度も通った私はアートのためのギャラリーであると理解していました。何のことはない、アーティストのためのシェアオフィスだったのです。

 元々1年間限定であったらしく、半年だけ延長されて2020年9月に終了し、建物は解体されるということになったのでした。老朽化もあるでしょうから、仕方のないことです。

 たしかに、朝日新聞社の記事に書かれているように、昭和がまた消えます。しかし、大山街道の宿場町であった溝口には、二丁目の西口商店街が典型的であるように、昭和の雰囲気が残る建物が少なくありません。田園都市線溝の口駅・南武線武蔵溝ノ口駅の前だけを見るとわからないかもしれませんが、少し歩けば昭和はたっぷり残っています。大山街道付近には今でも蔵造りの建物が残っているくらいです。大山街道沿いに高層建築物が多くなりましたが、それは表通りだけであって、何処かのどかさも残っています。中原区の小杉町や新丸子東などと違ってタワーマンションはありません(高津区久本三丁目、NEC東京第二工場の跡地にあるマンションが最も高い建物ですが、駅から1キロメートルくらい離れています)。足袋屋もあれば秤屋もあります。

 他所から来られた方々は、道が狭く、雑多という印象を受けるかもしれません。それが溝口の魅力であり、ニュータウンなどでは味わえないものなのです。

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