明治十年(1877)、横浜で上陸し鉄道で東京へ向かっていた米国人動物学者モースが
大森駅を発車した列車の車窓から、荏原台の崖の地層に貝殻が積み重なっているのを発見し
もともと標本採集のために来日していたモースは、政府の許可を得て、発掘を開始しました。
モースの大森貝塚に関する発表論文に、発掘現場の詳細位置の記述がなく
報告書の記述が「大森村」であったことから、長年大田区と品川区で
「こっちが本当の貝塚」という本家争いが起こっていました。
大森貝墟は、このうち大森駅寄りの大田区側の石碑です。
大森駅を発車した列車の車窓から、荏原台の崖の地層に貝殻が積み重なっているのを発見し
もともと標本採集のために来日していたモースは、政府の許可を得て、発掘を開始しました。
モースの大森貝塚に関する発表論文に、発掘現場の詳細位置の記述がなく
報告書の記述が「大森村」であったことから、長年大田区と品川区で
「こっちが本当の貝塚」という本家争いが起こっていました。
大森貝墟は、このうち大森駅寄りの大田区側の石碑です。