幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

2024年の自殺者 過去2番目に少なくなるも「小中高生の自殺」は527人で過去最多 厚労省「深刻な状況として受け止める」 ”小中高の自殺は高止まりだったのに、厚労省はどんな対策を講じてきたのか?”

2025-01-31 03:35:33 | 社会
https://news.yahoo.co.jp/articles/2f2f58ffc7105be30924575c30721f41e5509c22 1/29(水) 10:00配信 TBS NEWS DIG Powered by JNN
 去年1年間に自殺した人は過去2番目に少なくなったことがわかりました。一方で、小中高生の自殺者数が過去最多となっています。 
 厚生労働省などによりますと、去年1年間に自殺した人は暫定値で前の年から1569人減り、2万268人でした。統計を始めた1978年以降、2019年に次いで2番目に少なくなりました。 男女別でみると、男性は1万3763人で3年ぶりに減少し、女性は6505人で2年連続で減少しました。 
 一方、去年自殺した小中高生は527人で、統計のある1980年以降最も多くなりました。男子は前の年に比べて20人減っているのに対し、女子は34人増加しています。 全ての世代における原因や動機では、前の年に比べて健康問題・家庭問題・勤務問題が大きく減少した一方で、いじめや学校の友人関係などの「学校問題」が54人増えています。 厚労省は小中高生の自殺者数が最多となったことについて「深刻な状況として受け止めている」とした上で、SNSを活用した相談事業の体制を強化するなどして対策を進めていきたいとしています。 
 いま、悩みを抱えているという方は厚生労働省のホームページを「まもろうよこころ」で検索すると、電話やSNSで相談することができる窓口が紹介されています。

感想
 文部科学省が虐め対策をしっかり行っているのでしょうか?
いまだに虐めがあると、学校や教育委員会が「虐めと自殺に因果関係があるとは言えない」と言い訳をいまだに行っています。
逆に「虐めと自殺に因果関係がないと言えない」と言えるのでしょうか?
 厚労省は自殺防止の対策をして来なかったのでしょうか?
今さら「対策を進めていきたい」は蕎麦屋の出前と同じです。
 いのちの電話は電話に拘っています。
小中校生は電話を使いません。
いのちの電話は小中高生の自殺対策をどう考えているのでしょう。

「心のメッセージを聴く」池見 陽著 ”カール・ロジャーズの来談者中心療法とジェンドリンのフォーカシング”

2025-01-30 18:52:18 | 本の紹介
・精神分析に限らず、多くの心理療法は「実感」を利用する。「実感」を扱うことは心理療法の中核的なプロセスの一つである、と言ってもけっして過言ではないだろう。・・・
 しかし、「心の実感」とはいったいどういう現象なのか、どう扱うのか、どうしてそれが人の成長につながっていくのか、本書ではこれからこのような課題を考えていく。

・「身体感覚に聞いてみる」ことが少なくなってくる。身体感覚に照会しないまま、時間だから食堂に駆け込み、いつもどおりに「定食」を注文する。このように身体感覚を無視した行動は身体感覚を鈍感にさせていくのである。
 池見西次郎は、このように身体感覚が鈍感になった状態を「失体感症」と呼び、これが「失感情症」と関連していると考えるのである。

・ロジャーズはクライエントの話に耳を傾け、それを心理学者としてではなく、一人の人間として「わかる」まで聴くことに専念した。そして、それに加え、一人の人間として、クライエントの話を聴きながら、実感したことを素直に伝えるように試みたのである。このような発想に基づいたやりとりを想像して、再現してみよう。

Cクライエント 上司と話すとき、不安、というか・・・ある種の緊張感があるんです。以前には、そういうことはなかったのに。今年に入ってから、起こるようになったんです。
Sセラピスト ある上司の方と話すとき、あなたは、ある種のの不安、というか緊張を体験する。それは何だろうか、と考えているのですね。
C そうです。何か不安になるんです。
S あなたは、その感じが「不安」であるかのように実感している。
C 不安というよりも・・・自信がないんですね・・・仕事がうまく進んでいるときは、自信があるせいか、こんな不安感は感じたことがなかったんです。・・・そう・・・そういえば、最近は、何か自信がなくなってきているような気がするのです。
S それは、上司、というよりも、あなたの「自信」と関係している。
C そうかもしれません。そういえば、上司と話すときだけじゃなくて、他の管理職の人たちと会議なんかで話すときも、ちょっと何か言われると、こたえるというか・・・、
S なぜ自信を失っている自分がいる、そしてそのことが、この不安と関連している・・・。

 このように、ロジャーズはけっして、「あなたの問題はの正体は〇〇〇〇なんですよ」といった診断や助言をしないのである。むしろ、上記のように、クライエントの話をきっちりと理解しながら傾聴し、理解したことを言い返していくのである。

・人は人間関係の中で傷ついたり成長したりする。人が成長するとき、それは人との関係によるものなのである。

・ロジャーズは「カウンセリング」という特殊な関係だけが人を変えるとは述べていない。親子関係であれ、友人との関係であれ、職場の人間関係である、ある条件を満たした人間関係がそこにあれば、人はより自分らしく生き、成長すると考えたのである。

・ロジャーズはカウンセリングという特殊な人間関係には三つの「カウンセリング・マインド」があるとした・
①「一致」と「不一致」
②「共感的理解」
③「無条件の肯定的関心」(受容)

・彼女はいつも定刻に来た。セーラー服を着た十六歳の高校生である。セーラー服は着ていたが、学校には行っていない。それが彼女の問題、不登校である。・・・
 しばらく聴いているうちに、私は取り残される感じがしてたまらなくなってきた。これはモノローグだった。いなくても、同じような調子で一週間の様子を彼女は語るように思えてきた。この報告のような語りには「心の実感」の描写がまったくといっていいほど現れていない。これは一週間の行動報告なのである。
 私は質問を入れてみる。「友達から電話があったとき、何を感じたの? どんなかんじがしたの?」
 彼女の答えはそっけない。「別に」
<「実感」を誘う質問は拒否なのか>と私は勝手に考えてみる。そして次に「テレビ、何見たの?」
「別に」
「実感」を促す質問だけではない。すべての質問についても同じだった。その後、とにかく何をどう質問しても、答えはすべて同じ--「別に」。何もなかったように、彼女はどんどん語りを続けていった。
 これはいったいどういうことなのか、私は彼女の話を聴きながら、いろいろな可能性を考えてみた。病態水準はどうなのか<少し精神病的な傾向なのだろうか>? それも考えにくい。それとも、面接に来るが、本当は親の圧力で来ているだけで、本人には来談の意志がないのか? それにしても、礼儀正しく、定刻に来てよく話すところをみると、そうとも思えない。私との関係を、いったどうとっていくつつもりなのか? ・・・?
 そんなことを考えながら、私はなるだけ温かく、関心をもって彼女の話を傾聴していた--いや、本当は傾聴しているツモリだった。というのは、実のところ、彼女のモノローグが三十分を過ぎるころ、私に向かって、たまらない眠気が襲ってくるのがわかるからである。職務怠慢のようで、これを書くのは少し気がひけるが、面接開始後三十分ごろの私の体験では、ストーブの上のやかんの音と彼女の小さな声が入り交じって錯覚し始める。ストーブに面している私の身体の片面では、心地よい温もりが身体を襲い始める。瞼はまるでウエイトで引っ張られるように、地球の引力を感じ始める。「いかん」と思い、これと戦う。彼女の話を聴きながら、私の中で戦いが始まるのである。
 恥ずかしい話だが、二、三回の面接はこのように進んだ。今日はもっと質問に答えてくれるのではないだろうか、今日は何とかモノローグからダイアローグ(対話)に発展しないだろうか。などと期待しつつも、その期待は、彼女の「別に」という短い応答によって断ち切られていった。
 とうとう、四回目。この辺でなんとかしなければならない、と私は焦り始めた。これ以上これが続くと、私にとっても負担感が生じてくるだろうし、彼女も治療を打ち切るのではないかと考えた。何をどうすればいいのだろうか。何に、どう応答しても「別に」が返ってくるのだ。
 ここで私の中で「自己一致」のことが浮かんできた。私は、まったく「不一致」の状態に陥っている。温かく聴いているフリをしながら、実際に感じているのは「退屈? 眠気?」。
 思いきって、私が実感していることを彼女に伝えることが「自己一致」への道であるように感じられてきた。
 私の感じているのは何だろう? 退屈という言葉では正確ではない。その回、私は彼女の話を聴きながら、私に何が感じられるのか、「私の実感」に静かに焦点を当てていた。
 そうしてみると、彼女といるときの私の心の実感は複雑なものだった。簡単に「退屈」などと思ってしまえるようなものではなかった。まず、<彼女の話が身近に感じられない?こと。それに関連する<焦りのような感じ>、次に、そのことを彼女に言うと彼女を傷つけてしまうのではないか、という<臆病な感じ>、というよりも<とてもデリケートなものに触る感じ>がしていた。そこで、私は彼女にこれからすべて打ち明けることにした。
 「ねえ、ちょっとここであなたの話を中断するようだけど、僕が感じていること、言ってもいい?」というように切り出して、私の実感を伝えてみた。彼女の目は急にキラキラと輝き出したような印象を受けた。大丈夫だった。それどころか、今度は彼女が本当のところを打ち明けてくれた。
 実は彼女は面接の前の夜、面接の一時間で話す内容をすべてリハーサルしているのだった。話す内容を考えて、暗記する。時計を見ながらそれを一人で言ってみる。時間があれば、内容を変えて、もう一度リハーサル。時間が足りなければ、内容を一部削除して、もう一度リハーサル。つまり、ここで話していることは、すべて暗記されたものの復唱だった。退屈するはずである。よほどの名女優でない限り、このようなモノローグが相手の心を引きつけるわけがなかった。 
 そして、この面接が彼女の治療過程の一つの転機になった。もう暗記された内容はでてこなくなった。それどころか、この「暗記面接」が実は彼女の問題の核心であることもわかった。学校では、友達との人間関係で、彼女は全てを準備しているのだった。自発で突発的な出会いができないで苦しんでいたのである。面接の場面場面で、彼女はすべてを準備いているのだった。自然で突発的な出会いができないで苦しんでいたのである。面接の場面場面で、彼女は何を感じて、話したくなるのか、私は聴いていて何を感じて、話したくなるのか。その後の面接では、私たち両者が自己一致して、その場を生きることが課題となってきた。
 そういう面接が後二十回ほど続いた。徐々に彼女は自発的に感じたことを話せるようになってきた。友達といるときに緊張してしまうことや、人から関心を向けられることは嬉しくても、自分から人に対して、どう関心表現したらいいのかわからないことなどの話題が面接の中心になってきた。どのように自分を表現したらいいのか、私たちは一緒に考えるようになってきた。そのような面接過程の結果、彼女勇気を出して学校にいき始めた。面接で一緒に「かかわり方」を考えた成果が現れたのか、学校では、友達との関係も徐々に深まり始めた、そして修学旅行をきっかけに、彼女はついに不登校状態を過去のものにすることにできたのである。


・一人で、あるいは人と一緒に、実感を見つめるたびに、私たちは冒険をしている。自分のなかの実感に問いかけた結果として、私たちは、歴史に残る詩や音楽、芸術作品を生み出すことがあったり、自分のことや友人のことが新たな角度から見え、本当にいとおしく見えることもあったり、また、今週末どう過ごしたいかといった、ごく日常的なことがわかる場合もある。私たちは毎日、内なる冒険の縁に立っているのである。

フォーカシングでは、このような実感を「フェルト・センス」と呼んでいる。

その禅師の ところに仏教 哲学者が話を聞 きに行 きました. そこで禅師は 「哲学の話をする前に, お茶 を飲みましょう」といいました. お湯が沸く間, 2人 は沈黙 しています. その沈黙の中で哲学の先生 はいろいろ考えています 「どの質問か ら始めようか」
などと…. とうとうお湯が沸いてお茶ができると, 禅師はその湯飲み を哲学の先生の前において, お茶 を注 ぐわけです. どん どん注いで, 湯飲みが一杯になったのですが, それでも注ぎ続ける, で, お茶もこぼれるし畳 も濡れ る, それでも注 ぎ続 けた, という講話があるんです. 哲学の先生が 「何 をしているんですか」と聞 くと,
禅師が こう答えます.「この器 と, あなたの頭は一緒です. もうすでにいっぱいです. 私が何 を注いでもこぼれるで しょう」. これ は私の好 きな講話で, カウンセ リン
グしなが ら, ときどき思い出します.

・傾聴は指示を求めるような話に対してではなく、話し手自身が何かを考えたり、感じたり、創造的な解決を見いだそうとするときに有効である。別の言い方をするならば、話し手自身が考えるように、話を展開させることが傾聴の第一のポイントであるといえるだろう。

感想
 この本はカール・ロジャーズの「来談者中心療法」とジェンドリンの「フォーカシング」から、傾聴について述べられています。
 傾聴とは、話をただ聴くだけではなく、相談者に気付きを与える聴き方のようです。
 何を身体で、何を心で、何を心身で感じているかの実感を感じるというか知ることがとても大切だと言われています。
 違和感を感じたら、それは何か違っていたり、無理をしていたり、我慢していることがあるのかもしれません。
 自分の心身の声を聴くこと。そしてその声を大切にすることが重要なのでしょう。
周りの目よりも、周りの評価よりも、心身の実感を大切にすることが良いようです。
 私たちは自分の心身の声を聴くことがひょっとしたら鈍感になっているのか、心身の声よりも違うことを優先しているのか、聴いていないのかもしれないと思いました。
 ただ、欲望を理性でコントロールすることはどんな時にも必要ですね。
そうしないと人生を台無しにしてしてしまうかもしれません。
 わかっていてもなかなか出来ないですが・・・。

東国原英夫氏「疑惑があるというのは事実」 番組で元兵庫県議に関する投稿説明も…放送後に謝罪動画 ”誰の言葉を信じるかで、その人の人格が見えてくる”

2025-01-26 01:54:54 | 社会

 元宮崎県知事で衆院議員も務めた東国原英夫氏(67)が25日放送のTBS「報道特集」にVTR出演。斎藤元彦兵庫県知事の疑惑告発文書問題の百条委員会委員で県議を辞職し、死亡した竹内英明氏(50)を巡る投稿について「疑惑があるというのは事実」などと説明した。放送後には自身のYouTubeチャンネルに動画を投稿し、「真偽不明な情報を十分なファクトチェックもせずに拙速に発信してしまった」と謝罪した。 
  東国原氏は19日、自身のX(旧ツイッター)で竹内氏の死去を伝える記事を引用し「警察から事情聴取もされていたと聞く」などと投稿。その後投稿を削除し、「そうなんですね。自分も真偽不明の一部の情報を十分なファクトチェックもせず拙速に発信してしまった事を深く反省し謝罪をさせて頂きます」と謝罪した。竹内氏が「逮捕が間近だった」とするSNS上の真偽不明の情報については、兵庫県警の村井紀之本部長が20日、「全くの事実無根」「被疑者として任意の調査をしたことはなく逮捕予定もない」と明確に否定している。  
 番組の取材に応えた東国原氏は「“そういう話も聞くが”という表現にしたが、これは真偽不確かであるということで反省して削除した」と投稿について説明。「竹内元県議が“事情を知りたいと警察から言われている”という話はどこで知ったのか」と質問されると「ネットです」と答え、「信憑性に欠ける、真偽不明だというならそうかもしれないが、そういう状況証拠を全体として自分なりに判断して(県関係者の知人から)“どうも事情聴取を受けたことは事実らしいよ”と聞いたので、私はネットに書き込みました」と話した。  
 「事実ではなかったことを投稿したということですよね?」との質問に、「ですかね、そういうことになるんですかね。ただ、事実ではないというのは…疑惑があるというのは、僕の解釈ですよ、疑惑があるというのは事実」と言葉を選びながら話した東国原氏。「疑惑があったことが事実だったら“疑惑がありましたよね”と書きます。疑惑が本当かどうかまでは追及できません」と続けた。  
 東国原氏は番組終了後に「誤った投稿についてお詫び申し上げます」と題した動画を投稿。「今回、お亡くなりになられた元兵庫県議会議員の竹内様に関して、真偽不明な情報を十分なファクトチェックもせずに拙速に発信してしまったことを深く反省しております。お亡くなりになられた竹内様、そしてその遺族の方、そして関係各位の方々に対して大変なご迷惑、そしてまたご心労をおかけしていることを衷心より深くお詫びを申し上げます。申し訳ありませんでした」と謝罪した。

⇒発言がその場その場で一貫性がありません。

感想
 「疑惑があるというのは、僕の解釈ですよ、疑惑があるというのは事実」
「疑惑があるというのは事実」⇒「疑惑を私が持っているといのうは事実」
が正確な言葉でしょう。
「疑惑があるというのは事実」は間違っています。

 それと言葉は、誰の口から発したかで重みが変わるのです。
それを東国原英夫氏はご理解されていないようです。

 私たちも誰の言葉を信じるかで、まさに自分の人格のレベルをオープンにしているのです。
 東国原英夫氏は注目してもらうために、再生回数稼ぐために、やっておられるのかもしれませんが、もしそうなら自分の価値を下げてることになります。

 これまでもあることないことを言って来た、立花孝志氏の言葉を信じた人は、まさに立花孝志氏と同じレベルなのかもしれません。

「ナラティブと情動 身体に根差した会話をもとめて」小森康永/D.デンボロウ/岸本寛史/安達映子/森岡正芳共著 ”心身の声を聴きながら”

2025-01-25 18:40:40 | 本の紹介
・ナラティブセラピーは感情的である!

・ナラティブ実践は、感情と意味を結びつけ、両者を切り離すことを拒む。また、感情や意味を行為から切り離すことも否定する。このように、感情は文化、政治、倫理からも切り離されることはない。

・ナラティブ実践は、特定の時代、文化において、「感情」がどのように理解され、実践されるのか、その実際の効果にも関心を寄せている。

・ナラティブ実践では、感情表現がもたらす実際の効果、この表現に関連してどのような意味が作られているか、そしてこの表現と意味づけの行為が何を可能にするかについて最新の注意が払われる。

・感情そして/あるいは「感情の喚起」を「特権化」したり、感情/情動を意味から切り離したり、面接室で問題のある感情や状況をルーチンで「再体験」させることは、人びとを「トラウマの現場」に戻し、結果として再トラウマ化する危険をはらんでいる。

・感情とストーリーを切り離さないようにすることで、実践の豊かな可能性が見えてくる。

・ナラティブ実践は、注意深く名づけ、意味づけすることで、非意識的な情動を感情に引き込むプロセスであり、情動実践と理解することができる。

・感情/意味/行為を分離することを拒否することで、ナラティブ実践者は、「うつ病」のような感情/情動の状態を個人的かつ社会/政治的なものとしてフェミニスト社会理論家の仕事と一致している。

・河合は「その人が腑に落ちてもらうために自分で物語を発見していただく、それを助けるのが私の職業」という。そういう意味で、私たち心理カウンセラーの仕事は「物語屋さん」である。物語が腑に落ちたときに、人が変わる。カウンセラーという仕事をナラティブ(物語、語り)という観点から見たとき、自己への洞察がどのように立ち現れるかを、言い当てている。

感想
 感情/情動を大切にすること、それは身体とも密接に関係しているのだと思います。そして意味を物語で作れるかどうかなのでしょう。 

内容紹介(出版社より)
ナラティヴ・セラピーは,神経科学とどのように関係しているのか? 「感情」や「身体」とどのように関わっているのか? 「情動論的転回」とどのように関連しているのか? コミュニティ・ワーカー,緩和医療の専門家,ソーシャルワーク実践者,心理学者らの論考が照らし出す〈ナラティヴ情動実践〉のかたちとは。

主な目次https://books.rakuten.co.jp/rb/17623393/
第一部 神経科学の道を旅する
第一章 ナラティヴ実践と神経科学の出会い
第二章 感情移入する
第三章 情動論的転回との関わり
第四章 ナラティヴ・セラピーと身体

第二部 情動論的転回と触発ナラティヴ
第五章 ナラティヴ情動実践に向けて
第六章 神経科学と感情
第七章 ナラティヴ・プラクティスと情動
第八章 ナラティヴからアフェクト変様態へ
プロローグ 《小森康永》

第一部
神経科学の道を旅するーナラティヴ実践、神経科学、身体、感情、そして情動論的転回

第一章  ナラティヴ実践と神経科学の出会い 《デイヴィッド・デンボロウ》
 歴史と文化の中に現代思想を位置づける
 私たちナラティヴ実践者は、さまざまな概念とどのように関わっていけばよいのか?
 ナラティヴ・セラピーと神経科学の出会い
 ナラティヴ実践、神経科学、ニューロコンシールの回避

第二章  感情移入するーナラティヴ・セラピーと感情/意味/行為 《デイヴィッド・デンボロウ》
 ナラティヴ実践における感情/意味/行為
 感情を「特権化」することの危険性とカタルシスへの回帰
 情動移入されたユニーク・アウトカム
 基本的感情論からの脱却
 感情ストーリーを紡ぐ

第三章  情動論的転回との関わり 《デイヴィッド・デンボロウ》
 感情を政治化する
 個人と社会の間を取り持つ証言

第四章  ナラティヴ・セラピーと身体 《デイヴィッド・デンボロウ》
 感情的姿勢と身体的姿勢とストーリーをつなぐ
 マインドフルネスとの関係
 身体に根差したナラティヴ実践
 文化的・集団的考察
 身体に根差した会話
 科学と活動
 レビューと批評を介した誠実さ
 本論の執筆体験と謝辞

間奏曲 情動の名前《小森康永》

第二部
情動論的転回と触発ナラティヴ

第五章  ナラティヴ情動実践に向けて 《小森康永》
 ナラティヴと人生
 ナラティヴと言説
 ナラティヴと不分離

第六章  神経科学と感情 《岸本寛史》
 心と脳の関係
 ポスト認知としての感情
 皮質から皮質下へ
 パンクセップとは誰か

第七章  ナラティヴ・プラクティスと情動 《安達映子》
 感情と情動ーナラティヴ・プラクティスの更新
 感情を探索するー認証のナラティヴ・プラクティス
 ナラティヴと情動の風景

第八章  ナラティヴからアフェクト変様態へ 《森岡正芳》
 情動論的転回
 アフェクトをどのように捉えるか
 情動とトーヌスの変化
 意味の行為とアフェクト変様態

エピローグ 《小森康永》


いのちの電話のネット相談(メール相談)の利用(現在受付中)

2025-01-24 21:13:44 | 生き方 考え方 笑顔 ロゴセラピー
いのちの電話

いのちの電話はなかなかつながり難いです。
いのちの電話ではインターネット相談(メール相談)を行っています。

電話はかけ続けないとつながりません。
しかし、インターネット相談は受付ているかどうかを確認1~2回/日するだけでよいのです。

メールは悩みを言葉にすること自体が悩みを吐き出すことにもなります。
吐き出すことで悩みを第三者として眺めることができます。

そして遅くても約1週間以内(早ければ1~3日で)で返信が来ます。

電話がつながらない人はぜひ、試してみてください。