・ぼくは五歳のときに父と死別した。生まれたときは未熟児であった。この未熟児コンプレックスはぼくの生涯にわたってつきまとうことになる。
体力においても、才能についても、容姿についても劣等感があった。
ぼくのまわりの人々はみんな温和で善良であったから、ぼくはなんとか逆風の中で生きのびることができた。
それでも小学生のころに自殺したくなって、線路をさまよったこともある。原因は忘れてしまった。小さな蟻にとっては小石も越えがたい巨岩に見え、水たまりも大海のようで絶望してしまう。兵隊にとられて中国の山野で銃をかついでいたときは、もう二度と故国の土を踏むことはないとあきらめていた。
焦土となった敗戦の祖国へ引き上げてきたときも、希望は何ひとつなかった。
それでもシドロモドロにぼくは生きのびてきた。「今日いちにち生きられたから、明日もなんとか生きてみよう」と思った。
・人生の最大のよろこびは何か?
それはつまるところ、人をよろこばせることだと思った。「人生はよろこばせごっこ」だと気づいたとき、とても気が楽になった。
・ぼくらはみんな、それぞれ違う思い出を持っている。そして、
なるべくよい思い出を作りたいと思って人生を生きる。
・劣等感はまったくくだらない感情です。
こんなもの捨てるにこしたことはない。
・体が小さくてコンプレックスの塊。
絵が自分に自信をもたらしてくれた。
好きなことや得意があるということは、いいことですよ。
心のよりどころになるし、いつか自分を助けてくれる。
・運にめぐりあいたいなら、なんでも引き受けてみるといい。
自分の専門分野以外のことに広く眼を開き、経験したほうがいいのです。
・チャンスは誰にでも平等にある。
「どうせオレなんてダメだ」と言っている人は、
チャンスをつかもうとしていないのではありませんか。
・アンパンマンのアニメも、決してスムーズに運んだわけじゃない。・・・
「どうしてもアニメ化したい」という熱心な若いプロデューサーが、ねばり強く企画を出し続けてくれたおかげで、やっと企画が通った。・・・
ところが、与えられた放送枠は、月曜日の午後5時から30分間だった。視聴率が平均2%という最悪の時間帯だ。・・・
だが、放映すると視聴率はいきなり7%、翌年、文化庁の子ども向けテレビ用優良番組に選ばれた。
ようやく人気作品を世に出すことができたのだ。
このとき70歳。古希を迎えていた。「せめて、一年は続けたい」とスタートしたのが、もう20年以上続いて、ぼくは90歳を超えるまでになった。
・いまの仕事に不満を持っていたら、天職には出会えない。
・命を粗末にするなら、ぼくにくれ! と言いたいくらいだ。
・一寸先は闇でも、その一寸先には光がある。
・悪人を倒すことよりも、弱い人を助ける。ぼくが望む正義は、それほど難しいことではないのです。
・当時のアンパンマンは、パンを配るおじさんだった。自分がパンを焼いているからマントも焼け焦げだらけだ。顔もハンサムじゃない。空を飛んで戦地に行き、お腹のあたりからアンパンを取り出して子どもたちに配る。でも、国境を超えるとき、未確認飛行物体と間違われて撃ち落されてしまうというお話だった。
なぜアンパンだったか。パンは外国、アンコは日本のもので、洋服を着ているが中身はまぎれもない日本人と同じだ。アンパンひとつで遭難者が命びろいすることがある。食事にも、お菓子にもなる。何よりおいしい。
・アンパンマンは、自分の顔をちぎって人に食べさせる。
本人も傷つくんだけれど、それによって人を助ける。
そういう捨て身、献身の心なくしては、正義は行えない。
・出版社から、アンパンマンの絵本を次々と出すように求められた。
そのとき「小さな子どもが読者なのですから、グレードをうんと下げてください」と、何度も言われた。
でも、ぼくはそうしなかった。「グレードを下げる必要はない。作者として伝えるべきことを、しっかりと伝えていこう」と心を決めていた。
・ばいきんまんの登場によって、アンパンマンに、もうひとつのメッセージが生まれた。「共生」だ。
・さらに茫然としたのは、戦ってきた意義が逆転したことだった。「日本は苦しんでいる中国の民衆を助けるために戦うのだ」と聞かされていたのに、戦後は一変して、「日本軍は中国を侵略した」となったのだ。
・人間は欠点のない人を好きになりませんよ。
・「ごめんしょうが飴」
・人生は三カクなんだ。
「詩をかく、絵をかく、恥をかく」
恥をかいてでもやる。とにかくやれば、何かしら得るものがある。
感想;
70歳でアニメ化でそれで人気が出ました。
いろいろなご苦労をなさってきただけに、言葉に重みを感じました。
『アンパンマンの遺書』が早期退職したときに、大きなヒントを与えてくれました。
「依頼されたお仕事はすべて受ける」
さいたま市の盆栽町を歩いていたら漫画会館があり、偶然、「アンパンマン特別展」を行っていました。
その前にやなせたかしさんのエッセイを読んでいました。
アンパンマンが自分の頬っぺたのパンをあげることについて、「本当の優しさとは自分も傷ついても行うこと」とありました。
そんな意味があったのだと初めて知りました。
それでやなせたかしさんの本を何冊か読みました。
やなせたかしさんは奥さんは同僚でしたが、好きだと言えなかったそうです。
奥さんがお見合いをすると聞かされても言えなかったそうです。
諦めていたら、奥さんから「やなせさんの赤ちゃんを産みたい」と言われたそうです。
二人に子どもは授かりませんでしたが、アンパンマンが二人の子どもになりました。
奥さんが余命3か月と宣告され、ようやく売れ出したときで、忙しく、これから奥さんを幸せにしてやりたいと思ったら・・・。
暗い顔をしていたら、漫画家の集まりの後、里中満智子さんが「どうしたの?」と聞かれ、話したそうです。それで「丸山ワクチン」の話を聞き、試したそうです。
効いたかどうかわかりませんが、余命3か月は5年生存されたそうです。
この5年間は「ありがたかった」とこの本にも書かれていました。
『手のひらを太陽に』がやなせたかしさんの作詞だと知りました。
夜明かりに手をかざしたら血管が見えたので思いついたそうです。
『アンパンマンのマーチ』は好きな歌ですが、残念、うまく歌えない。涙
この2冊は、元気をくれました。