シンガーソングライター。ソロデビュー41周年。チャーミングで独創的な演奏。全米ピアノで1位になった上原ひとみさんとのコラボレーション。ニューヨーク拠点。
東京都出身。1976年ジャパニーズガールでデビュー。資生堂CM「春先小紅」で人気に。
「ラーメン食べたい」は国語の教科書にも掲載された。
誰にもまねできない独自の才能にサワコが迫る。
NYに1990年に移った。ものを創る人間がNYには世界中から集まって、切磋琢磨している雰囲気がある。年齢など関係ない。日本では年齢が記事と一緒に書かれる。私生活を突っつく質問を日本ではする。これは失礼。今日は失礼なことを聞くかも? ここは日本だから大丈夫。笑
1曲目は、幼少期から練習している曲「楽しき農夫」。今も弾いているが原型をとどめないアレンジが入る。
3歳からピアノを始めた。青森出身。いい加減だった。目が悪かったので、楽譜がよく見えない。なので、自分の好きなように弾いていた。
母とピアノで会話してきた。遠足から帰って、母が「どうだったの?」と尋ねられて、ピアノで演奏して表現した。そしたら母が「そうだったの」と答えた。
即興は誰でもできる。ただ、それで食べていこうという人はいないかも。
いつか自分はピアニストになりたいと思ったのはいつか?それ以外の選択肢はなかった。東京に出てきたのは高校で単身上京した。音楽の大学に行く気持ちはさらさらなかった。当時軽音楽で表現していたのは青山学院大学しかなかった。そのため必至で勉強して入った。
プロ志望は学生にはなかった。安倍譲二さんは父の友だち。「内の娘をよろしく」と頼んでいた。安部譲二さんが東京の父で、奥さんが店をやっていたので、そこでピアノを弾いた。歌を歌ったらと言われ歌ったら拍手喝采だった。お店には有名人も多く来ていた。
安部譲二さんが、「よし、厚生年金会館でおまえのコンサートをやろう」といって盛り上がった。
YMOと組んでやっていた。最初は私のバック演奏だった。それが2か月したら私がバック演奏になった。YMOは最高の男性ダンスバンドだった。人のマンパワーのバンドで皆が上手かった。
その後、「春先小紅」がヒットした。
その時の映像を見て、「よくやっていたな」。作詞は糸井重里さんだった。
詩を書くのが苦手だった。詩を書くと責任が生じると思って、嘘を書くことができなかった。自分が思っていないことは歌えなかった。糸井さんは同じように通じ合えるものがあった。なので糸井さんに死なれると困る。その感覚は今も変わらない。
しかし、詩が苦手だとのことだが、「ラーメン食べたい」が高校の教科書に掲載された。
夜中にああ、ラーメン食べたいと思って、「ああ、ラーメン食べたい」と思ったら詩と曲ができた。
今の若い人は教科書で矢野顕子さんを知っている。
アレンジが真骨頂。
さっちゃんはねのアレンジを紹介。
さっちゃんのいじらしい気持ちを感じた。
最初は歌詞をチェックする。曲はどうにでもなるので。
即興でやることは特別なことではない。
持っているものから出さざるを得ない。中に蓄積しているものが、持っているものがないと即興でもでてこない。銀行に行ってお金を降ろせるのは貯金があるから。
2曲目は、いつ聴いても楽しくなる曲「HAPPY」。
人が楽しそうにしているのを見ているのは好きなんです。一人で猫と一緒に踊っている。
宇宙飛行士になりたいとか。訓練は水中でやる。泳げなかった。そこで水着を買って泳げるようにしてくださいとコーチにお願いした。今は50m泳げるようになった。
努力の人じゃないですか? 好きなことはね。
感想;
才能が開花するのは、そのことにたくさんの時間をかけてきたことが必須のように思いました。
矢野顕子さんは3歳からずーっとピアノを弾いて来られました。
ピアノで感情を表現することが知らない内にできるようになっていました。
自分の才能だけでなく、才能ある仲間とのコラボで生み出すエネルギーが一人よりもさらに大きくなるようです。
東京都出身。1976年ジャパニーズガールでデビュー。資生堂CM「春先小紅」で人気に。
「ラーメン食べたい」は国語の教科書にも掲載された。
誰にもまねできない独自の才能にサワコが迫る。
NYに1990年に移った。ものを創る人間がNYには世界中から集まって、切磋琢磨している雰囲気がある。年齢など関係ない。日本では年齢が記事と一緒に書かれる。私生活を突っつく質問を日本ではする。これは失礼。今日は失礼なことを聞くかも? ここは日本だから大丈夫。笑
1曲目は、幼少期から練習している曲「楽しき農夫」。今も弾いているが原型をとどめないアレンジが入る。
3歳からピアノを始めた。青森出身。いい加減だった。目が悪かったので、楽譜がよく見えない。なので、自分の好きなように弾いていた。
母とピアノで会話してきた。遠足から帰って、母が「どうだったの?」と尋ねられて、ピアノで演奏して表現した。そしたら母が「そうだったの」と答えた。
即興は誰でもできる。ただ、それで食べていこうという人はいないかも。
いつか自分はピアニストになりたいと思ったのはいつか?それ以外の選択肢はなかった。東京に出てきたのは高校で単身上京した。音楽の大学に行く気持ちはさらさらなかった。当時軽音楽で表現していたのは青山学院大学しかなかった。そのため必至で勉強して入った。
プロ志望は学生にはなかった。安倍譲二さんは父の友だち。「内の娘をよろしく」と頼んでいた。安部譲二さんが東京の父で、奥さんが店をやっていたので、そこでピアノを弾いた。歌を歌ったらと言われ歌ったら拍手喝采だった。お店には有名人も多く来ていた。
安部譲二さんが、「よし、厚生年金会館でおまえのコンサートをやろう」といって盛り上がった。
YMOと組んでやっていた。最初は私のバック演奏だった。それが2か月したら私がバック演奏になった。YMOは最高の男性ダンスバンドだった。人のマンパワーのバンドで皆が上手かった。
その後、「春先小紅」がヒットした。
その時の映像を見て、「よくやっていたな」。作詞は糸井重里さんだった。
詩を書くのが苦手だった。詩を書くと責任が生じると思って、嘘を書くことができなかった。自分が思っていないことは歌えなかった。糸井さんは同じように通じ合えるものがあった。なので糸井さんに死なれると困る。その感覚は今も変わらない。
しかし、詩が苦手だとのことだが、「ラーメン食べたい」が高校の教科書に掲載された。
夜中にああ、ラーメン食べたいと思って、「ああ、ラーメン食べたい」と思ったら詩と曲ができた。
今の若い人は教科書で矢野顕子さんを知っている。
アレンジが真骨頂。
さっちゃんはねのアレンジを紹介。
さっちゃんのいじらしい気持ちを感じた。
最初は歌詞をチェックする。曲はどうにでもなるので。
即興でやることは特別なことではない。
持っているものから出さざるを得ない。中に蓄積しているものが、持っているものがないと即興でもでてこない。銀行に行ってお金を降ろせるのは貯金があるから。
2曲目は、いつ聴いても楽しくなる曲「HAPPY」。
人が楽しそうにしているのを見ているのは好きなんです。一人で猫と一緒に踊っている。
宇宙飛行士になりたいとか。訓練は水中でやる。泳げなかった。そこで水着を買って泳げるようにしてくださいとコーチにお願いした。今は50m泳げるようになった。
努力の人じゃないですか? 好きなことはね。
感想;
才能が開花するのは、そのことにたくさんの時間をかけてきたことが必須のように思いました。
矢野顕子さんは3歳からずーっとピアノを弾いて来られました。
ピアノで感情を表現することが知らない内にできるようになっていました。
自分の才能だけでなく、才能ある仲間とのコラボで生み出すエネルギーが一人よりもさらに大きくなるようです。