「侍」 遠藤周作著
支倉 常長(はせくら つねなが)をモデルにした小説ですが、残っている史実を元に、著者が思いを馳せて、当時、キリスト教を信じることの意味、重み、禍などを紹介しています。この本を読み、学生時代に読んだ「沈黙」遠藤周作著を思い出しました。
ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E5%80%89%E5%B8%B8%E9%95%B7
「支倉 常長は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。伊達氏の家臣。慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、ローマでは貴族に列せられた。幼名は與市、初名は六右衛門長経、洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ」
伊達政宗の親書を手に、180名になる訪欧団でスペイン王に交易することを目的として訪問しました。徳川家康とも事前に確認を取っていました。交易の条件としてキリスト教の布教も伊達藩では認めると。ただ、その後、徳川家康のキリスタン弾圧の政策により、宣教師の追放や処刑が行われるようになり、その情報がスペイン王やローマ法王にも届き、目的を達成せずに失意の下帰国しました。ローマ法王には謁見できましたが、それはキリスタンになったことと、遠い国からいのちをかけて来たことへの情愛からのことで、返書は貰えませんでした。
侍(支倉常長)がキリスタンになったのは、小説上では目的を達成するために仮の洗礼だったとなっています。侍が訪欧中に記した日記が1812年まで残っていましたがその後紛失しており、真意は不明ですが。7年をかけての旅でした。多くの一緒に行った仲間が亡くなっています。侍は無事帰国しましたが、当時の訪欧を意図した伊達藩の重臣は変わっており、藩からは冷たい処遇しかありませんでした。仮と言えども洗礼を受けたことへの取り調べ、処遇は厳しいものでした。帰国後、ほぼ2年後に亡くなりました。51歳の生涯でした。
スペインで洗礼を受けたということで、スペインでは周りの対応が歓迎ムードになりましたが、当時の日本はキリスタン弾圧の方針が出されれ、その情報がスペイン王やローマ法王にも届き、親書を受け取って貰えませんでした。そのためそれまで協力的だった多くの人が手のひらを返したように冷たくなりました。そのような中でも一握りの人々は変わらぬ協力を示していました。そういう人の協力を下に使節団は目的を達成するために最後の最後まで全力を尽くしましたが、達成することが出来ず失意の帰国になりました。
その後の支倉家は嫡男常頼が後を継ぎましたが、1640年、家臣がキリシタンであったことの責任を問われて処刑され断絶しました。しかし1668年、常頼の子の常信の代にて許され家名を再興しました。支倉常長はその後の家系図を作る時に名前を変えて今の生になったのではと言われています。仙台には支倉常長の子孫がいらっしゃるそうです。
この本は、侍の目を通してキリスト教とは何なのか?キリスト教を信じるとは?それを考えながらの旅でした。「沈黙」と同じく、キリスト教を信じてもいのちをかけて信じられるか、酷い状況を与えている神をそれでも信じるのか、そこには信仰の意味を尋ねている大きな流れが話の地下水流として流れているように思いました。宣教師、多くの信者がキリスト教を棄てずに処刑されました。棄てるといのちを助けられるとわかっていても棄てませんでした。一方、棄てて助かろうとした人もいました。「沈黙」では”踏み絵”を踏み棄てても、なおキリスト教から離れられない信者の姿も描かれています。神様になぜこんな過酷な仕打ちがあるのか尋ねても、神様は沈黙のままです。この本「侍」の中にも神様との対話が出て来ます。やはり神様は沈黙のままです。その沈黙の中に神様の意思を感じる者もいます。
キリスト教には関係なく、目的を達成するために厳しい状況でどうしていくか、精一杯頑張っても報われない社会でもどう生きて行くか、考えさせられる一冊でした。その報われないと思われる社会の中で生きて行くことに価値があると信じてい生きて行けば価値を見出せるとのメッセージもあるように感じました。