友達から紹介して貰いました。皆さんにもお伝えしたくて。
ある障害者施設に実在した子の話だそうです。
パターン1
「おはよう」。『おはよう』。
パターン2
「おはよう」。『おはよう。寒いですね』。
パターン3
「おはよう」。『おはよう。寒いですね。体調大丈夫ですか?』。
同じおはようとあいさつしても、返ってくる言葉によって、あなたの対応はどうでしょうか?パターン1だとそれで終わりになる確率が高いと思います。パターン2だと、あなたの気持ちしだいで次の言葉が出て来るかもしれません。パターン3だと何か返事しなければと思うでしょうね。
会話はこちらの返し方で変わってきます。傾聴という言葉がありますが、傾聴においても挟む言葉によって、内容が変わることがよくあります。聴き手によって話す相手の内容が変わります。特に聴き手が途中に質問など入れると、話の内容が大きく変わる場合があります。アクティブ・リスニングと言う手法がありますが、積極的に相手に話して貰うために聴き手が取る態度や言葉の方法です。
相手との会話を続けたい場合は、言葉の中に会話を続けるプレゼントを付けると良いと言われています。例えば、「おはよう」。「おはよう。今朝は冷え込みましたね」。今朝は冷え・・・がプレゼントの部分です。
そうすると、「寒かったですね。そろそろコートが必要ですね」。と続きやすくなります。言葉の最後に相手が話すきっかけになる話題を提供する方法です。逆に、それがある時は相手は話をしたいのだなと推測できます。何もプレゼントがないと、相手は話をしたくないのだなと推測できます。ただ、ぶっきらぼうな方もいらっしゃるので一概には言えませんが。
一方、聞き手が余計な言葉を発するために、墓穴を掘ることもあります。監査や査察で、尋ねられていないことまで話してしまい、そのことを追求されて、そこから問題点が出る場合があります。猪瀬都知事も最初の質問で、うっかり選挙資金がいくらかかるかわからないので、それに備えてと発言されました。きっと、その後に弁護士のアドバイスがあったのでしょう。選挙資金規制法に抵触するとのことで、選挙とは関係なくお金を借りたと訂正されていました。最初からお金を借りただけですと言っていれば一貫性があったのですが・・・。
先日、息子が職場が変わり引っ越ししました。そこでの水道料金の口座自動引き落としの申し込みを代わりに銀行に出してきました。息子が書いた申込書に不備がありました。水道口座の番号が無記載で、窓口の方が「これでは受け付けて貰えないかもしれません」と。『そうなんですか』。そうしたら、「水道局に電話して確認します」と。『お願いします』。「やはり口座番号が記入が必要とのことで番号を教えて貰いましたのご記入お願いします」と。「それと住所と名前が同上と記載されており、これでは受け付けないとのことでご記入いただけませんか?」と。窓口の方は、私が本人だと勘違いされているようでした。ここで本人ではありませんと伝えると受け取っていただけないかと思い、窓口の方の指示に素直に従いました。息子の下手な字を見ながら、同じように下手に(元々が下手なので困りませんでしたが)書きました。無事、受け取っていただけました。私は嘘は言っていません。言われた以外のことを話さなかっただけです。お役所などの対応の時はこの方法がよい場合が多いです。笑
意味による癒し-ロゴセラピー入門- フランクル 山田邦男監訳より引用
イスラエルの画家 イューダ・ベイコン、アウシュヴィッツに子供の時に収容された彼は、解放後にアウシュヴィッツで過ごした数年間にはどんな意味があったのだろうか、と自問しました。彼は次のように述べています。 「 子どもの時、私はこう考えました。自分がアウシュヴィッツで見たことは必ず世界に言ってやろう、と。いつか世界が変わるだろうと期待していたからです。けれども、世界は変わらなかった。世界はアウシュヴィッツのことに耳を貸そうともしなかったのです。ずっと後になって、ようやく私は苦悩の意味が何であるかを本当に理解しました」。そして、イューダ・ベイコンはこう続けています。「苦悩が意味を持ちうるのは、おまえ自身が変わるときである」。
数年前、あるゴミ収集人がドイツ政府から功労賞を受けました。この男性はみんなの満足のために仕事をしただけなのですが、しかし、彼に賞が与えられたのは次のような特別な業績があったからです。彼はゴミ入れを気をつけて見て、捨てられたおもちゃを探しあて、晩の数時間をかけてそれを修理し、貧しい子どもたちにプレゼントとして贈ったのです。修理人としての才能があった彼は、清掃の仕事に素晴らしい意味を付与したのです。
第二次世界大戦の数年後、ある医師が、乳歯の埋め込まれた金のブレスレットをしているユダヤ人女性を診察しました。「きれいなブレスレットですね」と医師は言いました。「ええ。この歯はミリアム、これはエステル、これはサムエルのものです・・・」と彼女は答えました。彼女は娘と息子の名前を歳の順に挙げたのです。「九人の子がおりましたが、その子たちはみんなガス室に入れられました」と彼女はつけ加えました。おどろいた医師が、「そのようなブレスレットを身につけたまま、どうして生きていけるのですか」とたずねると、静かにそのユダヤ人女性は答えました。「私は今、イスラエルで虎児たちのお世話をしていますの」。
京都嵐山の紅葉をTVで紹介していました。
9月16日の洪水から復活して、紅葉シーズンに間に合いました。
復活に大きかったのは、助け合いとボランティアの参加だったそうです。
自分のところだけが良ければ良いとの考えでなく、お互いが助け合ったとのこと。そして多くのボランティアが来て、片付けや清掃に参加してくれたそうです。阪神淡路大震災以来、日本においてもボランティアが増えて来ましたと伝えていました。
マザー・テレサさんが来日された時、繁栄していると聞いていた日本にホームレスの人が多いことに驚かれたそうです。マザー・テレサさんの講演を聞いた女子学生が、「カルカッタ(現コルカタ)の施設に行き、ボランティアをしたい」と話したそうです。マザー・テレサさんは、「あなたの身近なところにも、あなたができる活動があります」と答えたそうです。
”活動をともにする仲間へのマザー・テレサの言葉”
共同生活のなかで、おたがいに思いやりを忘れないこと、
自分のまわりにいる人々への思いやりを忘れないこと。
あなたがたが心のこもらない仕事をして奇跡を起こすことよりも、心をこめておこなった仕事の中でミスをおかすほうを、むしろわたしは望むでしょう。
まずは一目見て一声かけ、すばやく最初の行動を起こすことです。
人の心は外からではわからないのですから。
先日、電車で座っていたら、目の前に赤ちゃんを抱えた方が来られました。席を変わろうかどうしようかと迷っていたら、私の隣の方が席を変わられました。学生時代は条件反射のように席を変わっていましたが、今は人を見ながら迷うことが多くなりました。行動がすぐに起こせなくなっているのを実感しました。
また、ある時、65~70歳くらいの方が目の前に来られました。この時も迷いました。まだよいかなと思う気持ちと、その内に席を譲ってもらう歳にだんだんと近づいているなとの思いが駆け巡りました。きっといつか来るのだろうと。
フランクルを学ぶ人のために 山田邦男編 より引用
傷ついた癒し人(wounded healer)
「人間はそれぞれが傷を持っている、みんなどこかが病んでいる。病というのは身体であれ心であれ、穏やかでない部分があるということで、その自分の傷や病に気づいて癒された人間、癒しを体験した人間は、本当の意味で、他者に対しての癒し人になれるのではないか」
この考えは、旧約聖書イザヤ書53章から来ているとありました。そこをネットで検索して読みました。 http://blogs.yahoo.co.jp/jusus_christ_no1/30362828.html
「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。・・・」
死ぬような辛さを経験し、その体験談を”生きテク”に掲載し、それを見た人が生きる力を得ることができたら、死ぬような辛さにも意味があったことになります。
辛さに何か意味があるのだと思えると、辛さも耐えることができると、ヴィクトル・フランクル(「夜と霧」の著者)が述べていました。
以下の内容はフランクルの書物の中で紹介されているケースです。「意味による癒し-ロゴセラピー入門-」V・E・フランクル、山田邦男監修より引用
ある年配の開業医がひどい抑鬱のために、私のもとへ相談に来られました。その人は、こよなく愛していた妻を二年前に亡くし、その喪失のショックから立ち上がることができなかったのです。その時、私は彼に何事かを話すのを差し控えて、ただ一つの質問を彼にぶつけました。「もしもですよ、ドクター、あなたが先に死んで、あなたの奥さんがあとに残ったとしたら、どういうことになっていたでしょうか?」。「おお」と彼は言いました。「それは彼女ににとっては恐ろしいことです。どんなに苦しむことでしょう!」。そこで私は答えました。「そうでしょう、ドクター、そういう苦しみを奥様に味わわせないで済んでいるのですよ。この苦しみから奥様を救ったのは、あなたなのです。そしてその代わりに、あなたは今一人で生き、彼女のいないことを悲しまなければならないのです」。彼は一言も言わずに私の手を握り、静かに部屋を出て行きました。苦悩は、それが何らかの意味を、例えば犠牲という意味を見出したその瞬間に、何らかの仕方で苦悩であることをやめるのです。