・桑尾俊平さん
「思い出したら大切な存在だった」
色々な問題が山積していて大変だったし、時間が足りず辛かったけど、今となっては非常に良い思い出として、真っ先に出てくるシューレの体験だ。
・田口直子さん
「子どもと過ごす楽しい毎日」
保育の仕事を始めた時、不登校の経験をして感じてきたことと保育というのは、ちょっと離れたところにあると思っていた。保育には保育のやり方があるから、自分の価値観だけで保育を考えるのは違うと思っていた。
けれど、同じだった。子どもの発達にはある一定の目安があり、保育では目に見える結果を喜んだり「できる」「できない」の基準でるのを見てしまうことがある。
二年目に出会った先輩の保育士は、しきりにあせらなくていい(子どもをあせらせなくていい)、ゆっくりでいいと言っていた。目に見える結果をあせって見ていくのではなく、子どもの時期を待つと、子どもは自分のベースで、きちんと一つひとつ階段をのぼっている。・・・
不登校をしているときに感じてきたことや大切にしていきたいと思ったことを、保育のなかで大切にしてもいいだと思った。
・藤田法彰さん
「自分に逆らわず 自分にあった仕事をしながら」
僕は昨年から独り暮らしを始め、自分の給料で生活するようになりました。かつて、学校に行かなくなって、もうこれからは生きてゆけないと思っていた自分を、いまでは懐かしく、思います。
・角 絵里子さん
「たくさんの仕事経験そして育った場所で働く」
「小学校から学校へ来られなくなるような人間は、将来、風俗や水商売でしか仕事をすることが出来ないだろう」
これは、私が不登校になった小学校になった小学校五年生のときの学生主任が言った言葉だ。
それでもシューレで働くことを決めたのは、不登校は私の原点であり、シューレは母校のようなところで、いつかはスタッフとしてシューレに関わりたいと思っていた思っていたからだった。
・佐藤奈央さん
「今が私のターニングポイント」
人生の前半戦、出会い、別れ、いろいろな事を経験し、たくさんのものが私の中に一生の宝として残っていくだろう。26年間で得たもの、何かひとつでもかけていたら今の私は「ない」のかもしれない。
この先をすべての出会いに感謝して歩んで生きたい。
・黒川 然さん
「アイアム有罪」
僕は、人との出会いや再会の中で自分の人生に大きなスパイスをもらっていると思う。どう考えてたって、ひとりぼっちでは生きていけない。
・倉知 透さん
「母がスイッチをいれた大工への道」
母の死によって俺の人生にスイッチが入り、大工になる道へと押してくれた。40歳までには独立して、今までお世話になった皆さんに恩返しをしたいと考えている。
・鈴木祐司さん
「子どもを大切にしたいから始まった『子どもに関わる現場』を支援する仕事
僕とシューレのかかわりは約9年になりますが「ただそこに居ること」を目的として時間を過ごすこともできる一方、教化的な学びのほかに『これをやりたい!』を仲間と共に挑戦できる場所という感じでした。
このような環境で、自分と向き合いながら、仲間と共に自分の時間や生活を紡いでいくことは楽しくも難しくもありましたが、僕の様々な思考の礎んになっていると思います。
もう一つの大事なのは、自分の経験を話すことです。
不登校している、していないは他者から見たことであって、自分が生きていることに何ら変わりはないし、その中で自分が望むような出会いや学び、時間や暮らしをいかに納得した形で過ごせるかだと思います。最後は私個人の生き方や満足度、充実度の価値観の問題です。何かを始めるのに遅いことはないし、多少の制約があったにせよ、結果だけではなくそのプロセルも楽しめればいいと思います。
・石井志昴さん
「自分が経験した不登校をフルに生かして記事を書く」
とにかく私も不登校だった。なぜ不登校をしたのか、本当はよく分かっていないが、中学二年生から、学校へは一回も通っていない。・・・その後、NPO法人全国不登校新聞社のスタッフとして働いている。
仕事はいまもコツコツ勉強している最中だ。裁判の取材に行けば三権分立とは? というところから教わり、護憲問題の取材ではろくに読んだことのない日本国憲法も読んだ。その場その場で教わり、学びながら働いている。
・小池瑞穂さん
「歩いてきた道を振り返る時」
薄暗い図書館の中、並び連なる本棚の間を一歩一歩進みながら、「思えばずいぶんと遠くまできたものだ」と思う。
この文章を書いている私は、イギリス・スコットランドのエジンバラ大学に留学している。大学三年生から四年にかけての約一年間を使い、閃光の政治学を学ぶためである。
私が学校に行かなかうなったのは中学校一年生、13歳の時だから、もう9年物月日が経ったことになる。その9年の間、私はシューレと出会い、たくさんの友人たちと共に多くの経験をした。そして、その後私は大学生となり、今は日本人留学生としてイギリスという遠い国で暮らしている。9年前、「学校へいきたくない」と泣きながら布団にしがみつき、将来の見えない不安の中でもがいていた時、こんな日が来ることを私は予想していただろうか。あの時の私は一人ぼっちだった。ただ「学校に行かない」というだけでの事で、世界のすべてが私に背を向けてしまったように感じていた。自分の手足さえ見えないような暗闇の中で、私を助け出してくれる人など誰もいないと思っていた。
そんな私に、希望を与えてくらたのがシューレの子ども達が書いた『学校に行かない房から学校に行かない君へ』、そして『僕らしく君らしく自分色』という二冊の本だった。学校に行かなくなって半年ほど経った頃、母親が読んでいたそれらの本をたまたま手にした日のことを、私は今でもよく覚えている。そこに書かれていた体験記は、まるで私自身の言葉を代弁してくれているかのようだった。自分以外にも同じお身を抱えていた子達がいる、そしてなによりその子達の「学校に行かない」という生き方が認められて、元気に毎日を過ごしている場所がある。その時の私にとって、その事実は救いの光だった。自分自身の状況は何一つ変わっていないのに、曇った空が一気に青空に変わるように、私の気持ちもうれしさとともに晴れ上がった。それまで私に背を向けていた世界が、私の前で扉を開いてくれた気がした。そしてそれから更に半年ほど後、私は実際にシューレに足を運ぶことになる。
四年前、シューレを退会する際、「これからどんなつらい事があっても、苦しいことがあっても、いつでも『シューレにいた自分』を好きだと言える私でいたいです」と語ったことを覚えている。あれから四年の月日が経ち、私はその言葉を折にふれ思い出す。私は今でも自信を持って「シューレにいた自分」を好きだと言え、そんな自分を幸せに思う。
私の足は歩みを進めてきたのだと思う。死にたいと思うほどの苦しみでさえも、確実に私の人生を創り上げ、それなしではきっと今の自分はそんざいしなかっただろう。そして今振り返れば、四年前の自分から、驚くほど遠くに来ている事に気付く。
・須永祐慈さん
「自分の経験を通して メディアを創り、発信していきたい」
僕は小学校4年生の時に学校に行かなくなった。理由はいじめられたこと。後ろの男の子からのちょっかいから始まり、朝登校すると上履きを盗まれ、廊下の隅にあるゴミ箱に捨てられていたり、教室に入ると自分のノートや筆箱がなくなっていたり、授業中にゴミや悪口の書いたメモが回ってきたり、そんな毎日を耐えつづけて学校に行くなかで、しだいに今度は何をされるのかと心のなかで身構えるようになった。だんだん僕の持っているエネルギーが消費され、何をするにも極度の緊張と不安に襲われ、体も精神も疲れていった。
ある日、親が買ってきて家に置いてあった、東京シューレの子どもたちが書いた本を手に取って読んだ。僕と同じ思いを持っている人たちがいることを知って、気持ちが楽になった。読み終えてから、東京シューレに行きたいという思いになり、そのことを親に伝えた。
シューレに行って、これまでに出会わなかったたくさんの刺激が一度にやってきた。シューレにいる人たちを目にして、本当にさまざまな人が居るのだということを、学校に行かない子どもが集まる空間に、いろんなことに興味を持つ魅力的な人たちが居るということ、さらにどんな過ごし方でもよいということに大きなカルチャーショックを覚えた。
生きにくさを感じているそれぞれの場所から、ぼくたちは社会へのt問題提起をしていく必要があるのではないか。本づくりを始めとして、新しいメディアを創り発信していきたいと思う。
・愛甲香織さん
「仕事とは何か 過ぎていく毎日のなかで考えること」
そして一番大きな「私にとっての仕事とは?」答えはまで出ていません。
登校拒否をしていたころの私には、学校に行くこと・行かないこと、学歴社会への疑問、自分にとっての学校の意味などが最大の関心事であり、悩みでした。やがて「学校」から離れると、それまで自分の中を占めていたことがらは大したことではなくなり、また新たな悩みが生まれてきました。就職が大きな壁になったり、親やパートナーとの関係で行き詰まったり、仕事がうまくいかなかったり、これからの人生を思い悩んだり・・・。
今までも、これからも、ただその時、その時の自分で精一杯のことをしていくしかない。良いこと悪いことひっくるめてぼちぼちやっていきたいと思います。
・菅野宏一さん
「社会と向き合うのは大変だけど 長い道のりをゆっくりと歩みたい」
いい加減で甲斐性性のない人間がだらだら生きるには、この世はあまりに無情で生きにくすぎる。当たり前といえば当たり前であるが、それでも私はただ、この漫画のような世の中で、ウソを極力つかないようにいい加減に生きていきたい。私が望むのはそれだけである。
・江ヶ崎光太郎さん
「不登校のサバイバル」
理屈っぽく、反抗的な上に、悪い遊びを流行らせるので、クラスの評判を気にする女性教諭とは対立が絶えなかった。
私はそんな学校へ行くことに疲れ始めた。無意識のうちに、自尊心が削ぎ落とされ、いつしか、「病気になりたい。学校に行かない口実がほしい」と願うようになって行った。・・・本当に微熱が出たり腹痛が起きるようになった。
私は、出会った人達の思いやりを受容できず、人と誠実に向かい合えなかった。自分は、とても豊かな出会いに恵まれていたことに気づいた。そのことに、今まで気づかなかった自分が悔しかった。
夜毎荒れ狂い、もんどりうつ私を、数年間、彼女はひたすら愛し続けてくれた。私は、毎晩歪んだ心で生きてきた自分自身に怒り狂い、激しい悔しさと悲しみ号泣した。何度も自殺を図ったが、死ねなかった。
やがて、苦しみ疲れ、精魂尽き果てて放心したとき、私の眼に彼女の瞳が飛び込んでいた。そこには、私がずっと求続けながら否認していた「愛情」があった。彼女の愛に気付いた時、私は初めて、自分の本心に誠実になれた、「俺は彼女を愛し、求めている」私は初めて勇気をふるい、彼女の愛情に、自分の中に眠っていたなけなしの愛情を引っ張り出して、誠実に答えた。
そして「俺は決して自殺しない、生き延びよう」と決意した。
自由に生きるためには、しなやかさと、したたかさが必要だ。
感想;
学校に行けなくなった子どもたちが辛い、苦しい体験を経て、今自分の人生を歩んでいます。
人は今に納得しているから寄稿されたのだと思います。
同窓会に参加する人は今がそこそこ納得しているから参加されるように。
上手く行かず今も悩み苦しんでいる人もいると思います。
でも東京シューレの場所があったからこそ、寄稿した人は自分の人生を歩まれているように思いました。
・自分のやりたいことをする。
・夢と希望を持つ
・心身の声を聴きながら無理をせず一歩一歩歩む
・上手く気分転換する方法を身に付ける
があると、人は頑張れるようにも思いました。
馬を無理やり水飲み場に連れて行っても、馬が水を飲みたいと思わないと水を飲ませることができない。
自分をどう上手くコントロールするか難しいです。
それは学校行く学校行かない関係なく一生の問題なのかもしれません。
ただ、学校行っていた方が楽なのかもしれませんが、学校行かなかったことで普段だと体験できないことも多くあると思います。
言えていることは学校行く行かないではなく、自分の人生をどうしたいかなのでしょう。
小さい時は親が学校や社会の責任が大きいですが、大人になったらその比率は自分の方が大きくなるのでしょう。
でもやはり社会が手を差し伸べることがあるとそれがしやすいのかもしれません。
菅元首相が「自助⇒共助⇒公助」でこの順番が大切だと言われていました。
そうではなく「公助⇒共助⇒自助」ではないでしょうか。
頑張れる社会がないと頑張っても頑張っても徒労に終わる可能性が高いのが今の日本なのかもしれません。
そのために税金を払っているのですから。税金を頑張れる社会のために使って欲しいです。