幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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コロナ検証、次期政権に先送り 菅官房長官「事態収束後に」 ”タイムリーに検証しFBして今の対策に生かすこと”

2020-08-31 16:18:55 | 新型コロナウイルス
https://news.goo.ne.jp/article/mainichi/politics/mainichi-20200831k0000m010083000c.html 2020/08/31毎日新聞

 菅義偉官房長官は31日の記者会見で、政府の新型コロナウイルス感染症に関する検証について「事態が収束した後に、しっかりと行っていくことが大事だ」と述べ、次期政権に先送りする方針を示した。また安倍晋三首相への聞き取りを含めた検証の手法について「(公文書管理法等の)ルールに基づいて書類は残っていると思う。それ以上に必要なことであれば、聞き取りというのはあってもおかしくない」と述べた。

 菅氏は新型コロナ対応について「感染リスクをコントロールしながら社会経済活動のレベルを段階的に引き上げているところだ。28日には今後の季節性インフルエンザ流行期も見据えた新たな取り組み方針を対策本部でとりまとめて、今後速やかに実行に移していく」と説明した。

 一方、安倍首相が支援者らを招いて「私物化」したとの批判がある毎春恒例の「桜を見る会」の開催については「9月の概算要求が一つの目安。来年以降の取り扱いについてもそこで検討していく」と従来の説明を繰り返した。【秋山信一】

感想
政府の新型コロナウイルス感染症に関する検証について「事態が収束した後に、しっかりと行っていくことが大事だ」

タイムリーに検証して、政府が今対策していることが適切かどうかを見ることが必要ではないでしょうか?
事態が収束した時点では遅すぎます。
お腹が痛い。
お腹が痛くなくなってから痛いことの検証をします。
死んでいるかもしれません。
今、どうするかが常に求められているのではないでしょうか?

菅官房長官も大丈夫かな?

「衰退途上にあるこの国のリアル 日本の貧困女子」中村淳彦著 ”貧困国日本”

2020-08-30 01:05:55 | 本の紹介
・「東京貧困女子」に登場するのは、相対的貧困の指標ええある可処分所得が年間120万円程度を下回る東京や東京近郊で暮らす一般女性都民、市民である。すでに「単身女性の3人に1人」「子どもの6人に1人」が貧困状態にあると大々的に報じられているなかで、誰にでもすぐ隣にいる貧困女性たちを取材したノンフィクションだ。

・東京では、非正規雇用で一人暮らしをしていると、手取りが15万円程度、家賃6万円を払えば、もう可処分所得は貧困ラインに乗ってくる。

・現役女子大生は親世帯の実質賃金の低下と学費高騰、アルバイトの低賃金などが重なって、
一般的な女子学生どころか優秀な女子学生までどんどんと性風俗の世界に誘導されている。若い肉体という簡単に認められる価値を売らざるを得ないところまで追い詰められている。地方自治体が積極的に進める臨時職員なる非正規労働者に対しては、問答無用で生活保護水準(生活扶助+家賃扶助)程度の賃金で働かせ、素直でまじめな女性から貧困に転落している。真面目に働いているだけで転落するのだから、もう本当に落とし穴がどこにあるのかわからない。

・東京の貧困女性たちの苦境を聞くと、原因はほぼほぼ労働系の法律改正と国の制度変更であり、原罪の政府が積極的に推進する新自由主義(民営化、規制緩和、市場原理、労働の自由化など)路線によってう案れた貧困と断言できる。
もう一つは、既得権益層の中年男性たちに蔓延する貧困者に対する自己責任論がある。まず新自由主義路線のターゲットとされた女性たちに「あなたの貧困は努力不足で、さらに自分自身が選択した結果であり、だからあなたの責任」と、苦しむ女性たちに対して自己責任論を叩き続けた、学ぶために大学生になったり、生まれ育った地方自治体で臨時職員の雇用契約を結んだことが自己責任なのだろうか。

・「この先、なにもいいことないと思うのであと5年くらいで死にます。たぶん、自殺すると思います。生きていても、何もいいことはないだろうし、もうそれでいいです」
畑中さんはずっと真面目に働いている。しかし、母親から渡される小遣いは月2万円だ。携帯代、昼食代、ガソリン代でなくなってしまう。
通帳とカードを渡してくれないのは、生活費とか借金返済とか、生きていくのにすごくお金がかかるから見たいな理由を言っています。この1年ぐらい、ずっと母親と話し合っているけど、向こうは本当に嫌がる。

・「10代後半から本格的に男に依存するようになりました。寮付きの水商売を転々として、優しい言葉をかけられたらすべてOKしていました。優しくされるだけで嬉しかった。断れないし、断る理由がなかった。私を好きでいてくれるだけで嬉しかったので、恋人を1人絞るみたいなことができなくて、男関係はずっとメチャクチャです。この7年間ほど、ずっと心療内科に通っている。

・200社くらい面接落ちて、やっと先週、派遣に決まりました。月給15万円くらいの仕事です。ようやく最低限の暮らしができそうです。
卒業したのは偏差値が低い公立高校で、クラスの何割かの就職先は水商売と風俗ですよ。中学の同級生もそんな感じ。地元では、そういう仕事に就くのは普通のことです。まともな仕事はないし、あったとしても生活できるお金は稼げない。ほとんどの人は高卒で工場に就職して、地元に残り続けている。村社会なのでイジメもすさまじい、誉める部分はなにもないですね。
私は地元民ではあったけど、小学校の頃からいじめにあって、同性に囲まれてあらゆる嫌がらせををされた。まあ、死ねとか暴力だけど、その時の記憶は全然ないです。あまりにヒドイ経験して女性恐怖症になった。女性の人とうまくしゃべれない。家庭もおかしくて、なんていえばいいんだろう。母親からは虐待、父親からは性的な虐待をされていました。

・親からの給付がゼロどころではなく、奨学金が家計に組み込まれる。貧困家庭の子どもから本当に頻繁に聞く話だ。おかしいと心の中では思ったが、口にだせば、壮絶な暴力がはじまる。恐ろしい母親には絶対に意見は言えなかった。
精神状態は本格的におかしくなり、親に隠れてこっそりと心療内科を受診した。うつとPTSDと診断されて精神薬を服用するようになった。

・小山と同じく、群馬県太田、伊勢崎は違法風俗店が密集していたことでも有名で、摘発前までは都市圏から買春だんせいがこぞって遠征をしていた。

・原田愛子さん(当時29歳、仮名)は正看護師として病院に勤めながら、都内で風俗嬢をしていた。
実の父親の夜這い、強姦、近親相関となると、もう最悪の性的虐待だ。その悪夢の一夜だけでなく、継続して父親による強姦は行われた。北関東の実家から逃げるまで深夜、何度も何度も襲われている。

・マイルドヤンキーとは「攻撃性、違法性はなく、地元に根ざし、同年代の友人や家族との仲間意識を基盤とした生活をベースとする若者」と定義されている。

・昔らか年齢問わずに援助交際とか、高卒でキャバクラとか夜の世界に行く女性はめちゃめちゃ多いですよ。 風俗は子どもから大人まですごく身近な存在だし、女性が夜の世界に流れる比率は東京より圧倒的に高いと思う。でも、地元では働かない例えば小山市民だったら宇都宮の店で働くとか、群馬まで通うとか。みんな地元の知り合いにはバレたくないので、働く地域をちょっとズラすんですね。

・感覚値であるものの、30代、40代の家庭のある既婚女性の少なくとも1割、多ければ3割が不倫売春をしているという。
北関東のお母さんたちの不倫買収のイメージは、まず月給手取り30万円程度の正規雇用の既婚男性と、低賃金で月給8マ年の非正規職のお母さんが職場で知り合う。既婚男性は遊びの延長でお母さんを口説き、お母さんも遊び半分、家計が苦しいのでお小遣い目当て半分で、不倫に踏み出す。肉体関係のたびに1万円~2万円程度のお小遣いをもらい、お母さんは月3万円~5万円程度の増収となる。正規から非正規への再分配機能ともいえる。
再分配後、既婚男性は月給30万円⇒25万円、非正規お母さんは月給8万円⇒13万円になる。不倫によって増えたお金は自分で消費するわけでなく、夫と子どもが待つ家計に組み込まれる。そして、ギリギリの家計に少しの余裕が生まれる。
人によっては、お金目当ての不倫は家族への罪悪感みたいなのがあるかもしれない。しかし、周囲のママ友の多くが割り切って楽しんでいて、相手は好意を持つ自分で選んだ人物であり、刺激がある。カラダを使う風俗店勤務では起こりがちな精神面、肉体的負担はないどころか、退屈だった日常に明るい灯がともる。
「お母さんたちが集まるPTAの会合とか、もう不倫の話ばかり。ママ友で男を紹介しあったり、アリバイ作りを手伝ったり、ずっと前からそんな感じ。でもね。みんななにかしていても家庭は平和。このあたりのお母さんは家族への執着もすごいからね」

・実は不倫は全国的に我々が思っているより一般化している。2013年「ニッポンのセックス」(相模ゴム株式会社調査)という1万4100人のアンケート調査が発表された。40代既婚女性の19%が「不倫相手がいる」と答えている。

・栃木県には宇都宮競輪場、茨木県には取手競輪、ボートレース岩間、群馬県には桐生競艇、前橋競輪、伊勢崎オートレース場と公営ギャンブルが勢揃いし、パチンコ店、パチスロ店も充実している。北関東が今も昔も「ギャンブル王国」と言われる所以である。
「本当にギャンブルにハマる人はたくさん。特に男の人。北関東は戦後の復興支援で公営ギャンブル場がたくさんできて、祖父祖母の代からギャンブルに慣れ親しみがあるの。
・なにも言わないで親権切るような母親とは思っていなかったので・・・正直言ってしまうと本当にツラい。

・「これ友達、みんな死んじゃった」とあるページを見せてくれた。
佳代 首吊り
早坂 電車に飛び込み
郁ちゃん ガス
まゆみ 心中
隆 海へ飛び込み
絵美 焼身自殺
文ちゃん 首つり
利 オーバードーズ
トッチ マンションから飛び降り

感想;
普通の日本人が知らない「貧困」の深刻な実態
親→子→孫へと連鎖し、高齢者にも広がる
https://toyokeizai.net/articles/-/221708 東洋経済

貧困率というデータは、厚生労働省の「国民生活基礎調査」として公表されている。日本の貧困率の最新値は15.6%(相対的貧困率、2015年、熊本県を除く、以下同)。 前回調査の2012年の16.1%に対してわずかだが改善している。

一方、17歳以下の子どもを対象とした「子どもの貧困率」は2015年で13.9%。こちらも前回2012年の16.3%よりも大きく改善している。それでも7人に1人の子どもが貧困に陥っている状況だ。ひとり親世帯(子どもがいる現役世代のうちの大人がひとりの世帯)の貧困率も54.6%(2012年)から50.8%(2015年)と改善しているものの半数は超えている。

日本の貧困率の高さは国際的に見ると、米国(16.8%、2015年、資料OECD、以下同)に次いでG7中ワースト2位。さらに、ひとり親世帯ではOECD加盟国35カ国中ワースト1位になっている。

貧困率は、収入などから税金や社会保障費などを引いた「等価可処分所得(世帯の可処分所得を世帯員数の平方根で割った数値)」の中央値の半分未満しかない人の割合のこと。等価可処分所得(以下、可処分所得)の中央値は、年間245万円(2015年)。つまり年間122万円未満の可処分所得しかない世帯を相対的貧困層、その割合を貧困率というわけだ。

「最下層女子高生 無関心社会の罪」橘ジュン著 ”風俗も最後の砦にならなくなりつつある!”
https://blog.goo.ne.jp/egaonoresipi/e/4113f6833bdbde9b023ffdc6b6c73829


「ルポ貧困女子」飯島裕子著 ”本人の問題以上に政策の問題”
https://blog.goo.ne.jp/egaonoresipi/e/1b09d3c449f5a178c777c61324e0a925


「貧困世代 社会の監獄に閉じ込められた若者たち」藤田孝典著 "貧困の連鎖&努力が報われない社会”
https://blog.goo.ne.jp/egaonoresipi/e/ead2b9fbdc5865a8e2cab2907d9b8b38


「女子大生風俗嬢」中村淳彦著 ”学生の貧困と学業の狭間で”
https://blog.goo.ne.jp/egaonoresipi/e/867e1542f543a5ea007039cf9b8d0373


マクロ的には日本の貧困率は15.6%ということはデータから示されています。
この本にはミクロ的な、一人ひとりの貧困の状況が記されています。
貧困は自己責任という考えがありますが、貧困層は親から子、子から孫へと連鎖しており、人が努力しても貧困層から這いあがれない現状もあります。
これは社会、政治の責任でもあります。
貧困層が多くなると社会不安を来します。
村八分で残りの二分、火事、病気は村八分にしません。
なぜなら、火事や病気は広がるからです。
貧困は社会、政治の問題で放っておくことはできません。
日本は既に貧困国であり、それが女性、特にシングルマザーの貧困率が高くなっています。
そのため子どもへの教育が十分できず、そして低収入になり貧困になっています。

阿川佐和子さん「サワコの朝 服部隆之さん服部百音さん」 4代続く音楽家

2020-08-29 10:00:00 | 生き方/考え方
父 克久さんがこのコロナ下に亡くなっていた。
克久さんが「初の音楽家が生まれた」と初の演奏家としては初めて。3代は作曲家。
百音さんは10歳でリピンスキ・ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクールで第1位及び特別賞。史上最年少記録。第9回ヤング・ヴィルトゥオーゾ国際ヴァイオリンコンクールでグランプリ及び特別賞、ノヴォシビルスク国際ヴァイオリンコンクールグランプリ、ボリス・ゴールドシュタイン国際ヴァイオリンコンクールでグランプリ受賞。(ウィキペディアより)

「半沢直樹」の作曲(隆之さん)。
悪に向かって立ち向かうイメージの曲。
監督に「最高にいいけどダメなんだ。悪事に立ち向かうところにカタリストのイメージを出して欲しい」と。後で追加して作品にした。監督はメインの曲を何度もかけている。
「半沢直樹」の様ざまな曲も作曲している。
バリエーションをたくさん求められて作った。
ここがパパらしいなというところがある(百音)。

1曲目 マンハッタン・トランスファー「Nothin’ You Can DO About It」
人生何が起きてもじたばたするな。
https://www.youtube.com/watch?v=nkusGZZg180&list=PL18YPsgMoBUeQ4iJxCoqYVjpW0qH5TWSR&index=69
歌詞
http://www.kget.jp/lyric/165976/Nothin%27+You+Can+Do+About+It+%2F+%E8%B2%B4%E6%96%B9%E3%81%AB%E3%81%AF%EF%BD%A4%E4%BD%95%E3%82%82%E5%87%BA%E6%9D%A5%E3%81%AA%E3%81%84_The+Manhattan+Transfer

父の恩恵を受けまくり。恩恵がなければ最初にさだまさしさんからの依頼がない。服部克久の息子だからということで最初仕事が来た。百音さんはそれはない。

「真田丸」も作曲。
バイオリン曲だったので、百音に演奏してもらった。
それがデモ曲。大河のドラマはオーケストラなのに、バイオリンソロだけは珍しい。
バイオリンで戦国時代の厳しさを出そうと思った。
練習で毎日演奏して聞いているので影響を受けやすい。
父の曲は気持ちを入れやすい。
祖父はフランスの嫌いな感じ。父は何か暑いものがある。ここで何かを言い出したいなという個所がある。
こうやって弾いてくれるかなと思うように弾いてくれる。

「王様のレストラン」の曲も。
コミカルとバロック長のイメージ。
ご飯に関する幸せな感じがでている(百音)。

「HERO」の曲
1970年代のアメリカの刑事ものみたいなものを作って欲しいとの発注があった。

「東京ブギブギ」祖父 服部良一さん

舞台に出ると一人なので。今までは音楽家としての生き様。これは自分自身の闘い。
祖父や父がいなくなるとそれは逆に力になるかも(百音)。
「まだ生きているから」(隆之)
祖父がいなくなって、もっといろんな話を聞いておきたかった。まだ父がいるので(百音)。
今回ダメだッたと落ち込むと、我が家は100年近くやってきたから頑張れるかなと気持ちになれる(隆之)。

「長生きしてください」(百音)
もっといろんなことを教えて欲しい。これから人生生きていく上でいろんな壁はあるかと思うけど、自分で乗り越えていくつもりだけど、時々話を聞いてほしいし、父がまたどう乗り終えてきたかもも教えて欲しい。

2曲目 克久さん作曲「ル・ローヌ(河)」
父(ピアノ)と娘(バイオリン)で演奏
https://www.youtube.com/watch?v=lTCp3C0nqWI
服部克久さん、隆之さん、百音さんの演奏

感想
「半沢直樹」のドラマを効果的にしているのには、服部隆之さんの曲も大きく貢献しているようです。
様々な要望に応えて作曲する、素晴らしいと思いました。

服部百音さんは小さいときからコンクールを総なめされていて、さらに今後の活躍が期待されます。
娘と父の会話、微笑ましく感じました。








「思考と行動における言語」S.L.ハヤカワ著 ”言葉の背景も理解する”

2020-08-27 17:37:07 | 本の紹介
・人間世界のいろいろの事柄で、意見の一致や賛成に達するときは常に……この一致は言語的過程によって達せられるので、それによらなければ達せられない。-ベンジャミン・リー・ウォーフ

・この本の基礎にある仮定は言語の使用と通じてこの広い種内的協力が人間性損の基礎的機構であるということである。それと平行する仮定は、しばしばそうであるように言語の使用が不一致と衝突を作りあるいは激化させた場合には、話し手と聞き手、何れか一方または両方に言語的な欠陥がある、ということである。

・記号は・物そのものではない
 地図は・現地ではない
 コトバは・物ではない

・報告、推論、断定

・辞書の定義は、解釈には貴重な案内である。語はただ一つの「正しい意味」を持つのでなく、似通った状況の群にあてはまる。それは意味の領域と呼ばれる。辞書が役に立つのは意味の領域の確定についてである。

・言語を理解し、また使用する能力を増すためには、したがって、語の情報適内包に対する識別力を磨くだけでなく、言語の感化的要素を見抜く力を磨かなければならない。これは社会的経験を通じ、諸種の状況においていろいろの種類の人に接し、また文学を研究することなどによって得られる。

・隠喩、直喩、擬人はもっとも有用な伝達上のくふうで、その素早い感化的な力は、新しい物や新しい感じに対しいちいち新しい語を作ることを不要にする。

・引喩
聞き手が、言及されている歴史や文学・国民・出来事を十分に知っている場合にだけ感化的に有効である。

・皮肉、哀感、ユウモア

・もしわれわれが、詩というものの詩人への働きを発見しようと試みるならば、われわれは詩があらゆる人に及ぼしている働きについての一連の通則を発見できようということである。-ケネス・バーク

・よくえらばれた「詩」の選集は、よくある精神変調に対する完備した薬局であり、治療と同様、予防にも役立つ。-ロバート・グレーヴス

・言語行動の研究で考慮すべき決定的に重要な点は、言語と実在、コトバとコトバにならないものとの関係である。この関係を理解しないと、われわれはコトバと事実のとのデリケートな関連をねじ曲げ、コトバの暴走を許し、その結果、自ら空想と妄想を虚構するという、重大な危険をおかすことになる。

・われわれの遠い祖先は、かれらが理解できない自然現象におびえて、その恐れや不安を世界に投影し、それを悪意のある存在として人格化し、何らかの犠牲を捧げてこの存在をなだめようとする。かれらは抽象を現実と誤ったのである。-ジグムント・フロイト

・民主主義的過程の多くの特徴は多値的考え方を前提としている。

・開かれた心と閉ざされた心
1) 聞き手が、話し手とその話の内容とをともに受け入れる場合
2) 聞き手が、話し手は受け入れるが、その話の内容は拒否する場合
3) 聞き手が、話し手を拒否するが、その話の内容は受け入れる場合
4) 聞き手が、話し手とその話の内容とをともに拒否する場合
ロキーチ氏が「閉ざされた心」の持ち主と呼ぶ人は、1)と4)の反応しかすることのできない人のことである。それに反して「開かれた心」の持ち主は1)と4)だけでなく、もっとふくざつな2)と4)の反応も示すことができる。

・壇上にいるネズミたちに、下にある扉をめがけて飛び降りさせる訓練をします。扉は二つあって、右側の扉は開かないようにします。ですから右側に飛んだネズミたちは、したたかに扉に鼻を打ちつけることになります。
一方、左の扉は開くようになっており、しかも扉の下にはエサを用意しておきます。こちらに飛ぶネズミだたち痛い思いをしなくてすみ、美味しい思いもすることができます。
こうした経験をくり返しているうちに、やがてネズミたちは左側にしか飛ばなくなります。痛い思いをしないで美味しいものにありつける方法を経験によって覚えたわけです。
そこでネズミたちが慣れたころをみはからって、右と左の扉の構造を入れ替えます。つまり今度は、右側の扉が開くようになっていて中にはエサが用意されており、左側の扉は閉じたままにするのです。
そうとは知らないネズミたちは、今までと同じように左側の扉に向かって飛びます。すると今度は鼻を扉にぶつけるだけになっていまします。
左に飛んで痛い思いをしたネズミたちは、「それなら」と今度は右側の扉に飛んでエサにありつけるようになる-皆さん、こう思われるかもしれませんが、そうはなりません。何回か左側の扉に飛んで痛い思いをしたネズミたちは、ついには飛ぶことをやめてしまします。お腹がすいて死にそうになっても、左側にも右側にも飛ぼうとはしません。壇上でジッとしたまま、死を待つだけになってしまうのです。

・たとえ目の前に目標物が見えていて、別のやり方をすればそれに到達できる場合にも、かれらは挫折感から凶器におちいる。かれらはやたりに走り廻り、またすねて隅に身を寄せ、食べようともしない。苦悩を噛みしめ、冷笑的になり、幻滅を感じ、何が起ころうと気にしなくなる。

感想
コミュニケーションを取るために、言葉を駆使する必要がありますが、言葉の持つ様々な背景も理解して、言葉を使うことなのでしょう。

「伊藤道郎太陽の劇場をめざして世界を舞う」藤田富士男著 ”好きなことに挑戦し続ける!”

2020-08-26 14:00:00 | 本の紹介
・道郎は、斎藤佳三から、ベルリン先住者の山田耕作を紹介された。
 耕作は道郎にアドバイスしているうちに、彼には声楽の才能よりも、他の芸術が合っているのではないかと思うようになる。折りしも、オシアン・バレエがベルリンの多くの芸術家たちを、席捲しはじめていた時期でもあった。

・古荘から、ドイツ人声楽家を紹介するとの連絡があり、レッスンを受けるために、6月3日にベルリンを離れてライプチヒへ移った。そこはマリイ・レーマンという儒流オペラ歌手の家である。道郎はレッスンを受けながらも、耕作とベルリンで別れる前に「君はいいバリトンだが、全体としては声楽家よりは舞踏家向きだ」といわれた言葉を思い浮かべていた。

・7月に入って、ドレスデンのヘレラウ村にあるダルクローズ学院で学園祭が行われることを道郎は聞きつけた。ダルクロース学院が世界の注目を浴びていることを、耕作から聞き及んでいた道郎は、一度は観たいと思っていただけに、この機会を逃さなかった。
この舞台を観た道郎は、初めて舞台芸術の本物に出会ったような衝撃を受けた。そこで矢も楯もたまらず入学手続くをしようと行動する。

・道郎の目指したダルクローズ学院は、リトミック(律動運動)を使ったレッスンで、世界中から芸術家が訪れている学校である。だから入学についても厳しく、面接では、舞踊もテストされたが、帝劇過激部で習った日舞が案外に役立った。彼の身振りに、ただならぬセンスの良さを発見し、校長は入学を許可したようである。

・同じダルクローズ学院に学んだ児童教育の小林宗作は、帰国後、トモニ学園という学校を創った。そこではダルクローズのユーリズミックス(リトミック)を基調とした学習方法が取り入れられている。トモニ学園に学んだ黒柳徹子は、その授業風景を『窓ぎわのトットちゃん』の中に描き出している。それによると、「リトミックは、体の機械組織を、更に精巧にするための遊戯です。リトミックは、心に運転術を教える遊戯です。リトミックは、心と体に、リズムを理解させる遊戯です。リトミックを行なうと、性格が、リズミカルになります。リズミカルな性格は美しく、強く、すなおに、自然の法則に従います」といった小林の理解に基づいて行なわれた。

・学院には18か国から400人位の学生が集まっていただが、灯油尾人は道郎一人だけだった。そのため一挙手一投足に好奇の眼も注がれて、道郎が行動し発言するたびに、「日本人や東洋人はそんなことをするのか」とか「そんなことをいうのか」と尋ねられた。そんなわけで「僕の意見だが」といちいち説明書きをつけてものをいわなければならなかった。道郎は偏見を取り除くには練習しかない、とばかりに、人の数倍もものレッスンを積み重ねた。しかし、道郎にいかんともしがたいことが二つあった。一つは、肉体訓練のときである。海水着一枚になると、背丈は日本人としては高かったけれども痩身の道郎は貧弱に見られた。二つ目は、ピアノである。これは道郎のアキレス腱とおいえた。

・女学生だけでなく、道郎はピアノを除いては、教師たちに受けがよかった。

・道郎のダルクローズで学んだ期間は一年そこそこでしかなかったものの、その後の芸術観の大半をここで考え、身につけていった。

・8月14日にベルリンを脱出しようという日本人たちがレーアター駅に集まった。100名を超える同胞の姿に、故国に帰ったような錯覚に捉われた。道郎はベルリンからハノーバー、ザルツベゲンを経てオランダ国境のベンタイムへ到着する行程のなかで、戦争の空しさを感じていた。フリッシンゲンの港からロンドンへ渡った。

・それにつけても、さすがに連日のカフェ通いは道郎の生活を圧迫しはじめた。自活すると豪語した道郎だったが、別にあてがあったわけではない。

・カフェでの友人の一人がオットライン・モレル婦人のパーティへ行こうと誘いに来たのだった。しかも、彼女に道郎のダンスを見せると売り込んであるとのことだった。彼女は、数多い芸術家のパトロンの中でも、その名をひときわ知られていた。道郎は力の限り踊りまくった。彼女は、その場で道郎に自分のパーティでも踊ってくれるように、頼んだ。これで当分生活することができると思うと天に昇るような気持ちになった。あちらこちらのと芸術家のパトロンたちからのお呼びがかかるようになり、劇場はもとより慈善事業の寄付集めのパーティでも舞い続けた。

・道郎にニューヨークからの招請状が舞い込んできた。道郎から相談を受けたイエールは、三年ほどアメリカで修行してこい、と助言した。

・道郎は映画にも出演依頼があり、さらに多忙を極める。

・道郎は、女性関係については、来るもの拒まず、といった甘い面が認められた。それでなにも不自由することもなく、プレイボーイ的な生活を続けていたのだった。ところが、この頃より、特別一人の女性とだけ付き合うようになる。道郎の舞踊学校に在籍していた女性とで、ヘイゼル・ライトといった。
ヘイゼル・ライトの両親の許へ行ったが、両親は許さなかった。翌年の初めのころに懐妊する事態にまで進んだ。そこでヘイゼル・ライトが周囲の反対を押し切る形で二人は結婚したのである。

・20年ぶりに帰国した道郎を母喜美栄や兄弟たちが出迎えた。19歳で出国した道郎はまもなく38歳になろうとしていた。一行は、4月13日の帝国ホテルの試演会に臨んだ。この試演のあと、東京朝日講堂(3日間)、帝国ホテル演芸場、大阪朝日会館での各公演を催している。この公演中にに、真木竜子は、「伊藤道郎」の名前を初めて耳にした、と思い出す。
これら一連の公園は、現代舞踊の歴史の浅かった日本にしては、関心を呼び、客の入りも十分すぎるほどであったのに、採算面では赤字を計上している。もちろんそれは、道郎たちには知らされていない。その原因は、一行の日本見物を兼ねた滞在費用や、金銭感覚にうとい道郎が、夫人の目を盗んで京都や東京で芸者遊びにに精出したとあっては、いくら費用があっても足りなかった。一行の勧進元を引き受けた喜朔は、大損失だったが、黒字として、一行にいくばくかの収益金を渡したので、負債を一人でしょいこんでしまったのだ。そんな弟の心労を解らないまま、久々の日本の良い面ばかりを堪能して、道郎をはじめとした一行は岐路に就く。

・一路ハワイを目指す1749トンの秩父丸のデッキから華やいだ声が響き渡ってくる。船中には、日本人や日系人が乗り合わせている。
早川雪州、竹久夢二、佐野硯、翁久充

・道郎が、世界の各地で芸術的成功をおさめたのは、自分の個性を前面に押し出して、妥協を許さなかったからだ。ところが道郎は、家庭においても自己の信念を貫き通そうとした。つまり、自分の思う通り、気ままに行動したのだった。お金を渡さない、家に居つかない、といったことが度々だったのでは、家長制下の日本人妻でも忍耐に限度がある。ましてや、自らも芸術家としてのプライドを持った、ヘイゼル・ライト夫人は、そんな道郎を咎め、激しく口論するこtも多かった。この頃、ヘイゼル・ライトの我慢と怒りは、ついに限界に達したのだった。彼女は分かれうkとおを提案し、道郎の許を離れて行った。二人の子供は、一度ヘイゼル・ライト側に引き受けてもらったものの、他の家族になじめずに、道郎の家へ帰って来た。二人の面倒は艶が見ることになり、道郎は艶と正式に再婚する。

・道郎は、日米の戦力の差は歴然としており、一部の帝国主義者たちを除いて、日本人が開戦を望んでいないことをアメリカの友人たちに訴えた。
開戦寸前まで、戦争を回避するために努力した人々として海軍系の野村喜三郎、陸軍系の岩畔豪雄や井田忠雄、外務省・アメリカ局長の寺崎太郎などがいたことは知られているが、それと同様に、あるいはそれ以上に民間人として努力した道郎がいたのである。太平洋戦争は不幸な出来事ではったが、このように国内外で非戦的な運動を展開した人々が数多くいたことを私たちは忘れてはならない。

・家族の見守るなかを拘引された道郎は、ロッキー山脈とビタールート山脈に挟まれた山あいの町、モンタナ州ミズーラの収容地に送られた。
道郎の場合、国際結婚が絡んでいただけに、4人(子ども二人、艶、道郎)がそれぞれに引き裂かれるという残酷な目に合った。戦争は、こんな面においても人間性を無視した悲劇を作り出したのである。

・第二回の捕虜交換は、人選などで一時は中止かと危ぶまれ、大幅に遅れたすえに、ようやく翌43年10月19日にポルトガル領インドのマルゴン港(ゴア)で人員を交換することになった。
道郎は、長旅と、週湯尾署生活で別人のように痩せおとろえていた。
陸.海軍の幹部連が次々にやってきては、アメリカの現状などを尋ねて帰っていく。道郎も客観的なアメリカ情報を軍部に与えた。一段落すると、彼は、自分なりの戦争参加を考える。道郎は、芸術を逸脱した範囲でそれを考えるkとおなどできなかった。
道郎は、キャンプ・リビングストーンの中で「八紘一宇」(天下を一つの家のようにすること)についてずいぶん勉強している。その精神に支えられた、芸術活動ならば、軍部のきゅお感も得られると思いいたった。加えて、年来の「太陽の劇場」を表現できる可能性も探ってみた。「太陽の劇場」の上演が、民衆の精神を高揚させ、人気を高めていくのだと説いている。そして人々を太陽の慈愛に感涙させられる、これこそ「八紘為(一)宇」だと、軍部とは異なったニュアンスの下に展開していく。
道郎は12月に入ると、大東亜舞台研究所の名称でのレッスンを開始する。1クール終わった講習生の真木竜子らは引き続き、そこに参加している。

・9月に東京湾のミズリー号船上において、降伏文書の調印が終わると、GHQが置かれ、全国にGIたちがやってきた。
道郎についていえば、GHQは、FBIルートからロサンゼルスでの工作活動の事実をかなり正確につかんでいて、それが非戦的立場からのものであったことを確認していた。アメリカは情報量が多いこともあり、道郎のアメリカに対する貢献度も正当に評価されていた、したがって「大東亜舞台研究所」所長として立場も、共栄圏の礼賛者でなく、単なる芸術活動の一環としか見なされていないようだった。
46円の1月4日にGHQ民生局は、戦争責任者の公職追放を発表したが、もちろん、道郎の名前は含まれていない。道郎は、責任を追及されるどころか、アメリカ兵士の娯楽専用劇場「アーニー・パイル劇場」(東京宝塚劇場)の顧問兼総監督にさえ起用されたのだ。
こうして第一回公演『ファンタジー・ジャポニカ』の幕は開けられた。46年3月24西のことである。三千人のGIたちは敗戦国日本で本国でも観たことがないレビューに接して驚嘆させれた。

・道郎はロサンゼルス時代に、ミス・アメリカ大会に関係したことがあり、日本でのミス・コンテストのイベントの一部を委嘱される。そして、4月22日に、第一回のミス日本コンテストが開かれる。この時、ミス日本に選ばれたのは、山本富士子だった。

・すでに人生の全てを超越した境涯に至っていた道郎にふさわしい仕事が委嘱された。1964年に行われる東京オリンピックの開・閉会式の総演出の仕事だった。友人の武田恒徳(JOC元委員長で明治天皇の孫)の推薦だろう。(オリンピックの前に逝去)

感想
昭和の激動期に舞踊でドイツで学び、英国、米国、日本で公演し続け、まさに西洋舞踊の先端を走って来られたのでしょう。

未知に挑戦し続けられた一生だったようです。
先のことを不安がるよりも、今できることをすることで未来を切り開いて来られたように思いました。