政権の要職にある木原誠二官房副長官の妻X子さんが、かつて結婚していた前夫・安田種雄さんの不審死事件の重要参考人として警視庁の取り調べを受けていた――。
『週刊文春』が7月13日号(7月6日発売)で放った超弩弓のスクープは、その後も「警視庁捜査員の音声データ」、「遺族が捜査続行を依頼する上申書を提出」、「妻取調官の実名告発」と、「前夫の死」を巡ってどんな小説にも及ばない“実話”が展開されている。 だが、新聞やテレビのマスコミは報じない。種雄さんの父が司法記者クラブで「顔出し会見」を行っても、X子さんの聴取を行った元捜査一課の佐藤誠氏が「実名会見」を文藝春秋社で行っても、黙殺するか小さく報じるにとどまっている。
ネットの普及がマスコミの影響力を衰えさせてはいるが、ネットニュースもまた新聞・テレビの報道を横流ししていることが多く、テレビのワイドショーやネットを含む雑誌ジャーナリズムも、捜査当局が関わる事件ではマスコミ報道を待って「後追い」することが多い。したがってマスコミが扱わない「木原問題」は、拡散されていないのが現状だ。 唯一元気なのがYouTubeや自身のブログを持つフリーのジャーナリストで、それを象徴するように佐藤誠氏の会見では、ユーチューバーが積極的に質問し、YouTubeで事件を確認していたという佐藤氏が、「観てますよ」といいつつ質問に答える場面があった。 では、なぜマスコミは報じないのか。官房副長官は公職であり、その影響力を行使して「事件を止めた」という疑惑も指摘されている。つまり報道に公益性もあるのだが、分断は1ヵ月以上も続き、文春読者かネットで細かく情報を拾う情報通以外は、この事件を知らない。
報じられない理由を考察したい。そこにはマスコミが抱える「病巣」が潜んでいるし、今後の展開を考えるきっかけにもなる。 第一に考えられるのは、事件にならない可能性が高いことだ。
「コスパが悪い」取材
警視庁は2006年4月の種雄さん死亡時に捜査を行い、「覚醒剤乱用による自殺」と見立てていた。12年後の’18年4月から再捜査が開始されたものの、捜査は縮小され、今回の一連の文春報道を受けて警視庁の国府田剛捜査一課長は、7月28日、「証拠上、事件性は認められず死因は自殺と考えて矛盾はない」とコメントした。 マスコミ各社は警察・検察・国税といった捜査機関に置かれた記者クラブを拠点に、当局と一体となって事件を追う。「事件にならなければ書かない(書けない)」という価値観が記者には刷り込まれており、課長発言の前には露木康浩警察庁長官が定例会見で「事件性はない」という趣旨の発言を残している。 「捜査せず」と語ったに等しい。であれば事件にはならず、その予想が記者に取材をためらわせる。「コスパが悪い」のである。
第二に、木原氏が有力政治家で、岸田文雄政権を支える立場であることだ。
それは「圧力があったのではないか」という疑惑につながり取材の動機にもなるが、今回、期間が短いとはいえX子さんへの聴取は行われた。また佐藤氏が認めるように二階俊博幹事長(当時)から木原氏に、「捜査には協力するように」という発言があった。つまり、政権中枢が事件潰しに動いた形跡はない。 もちろん捜査切り上げ(国会期間中の中断や捜査体制の縮小)に有力政治家である木原氏への配慮や忖度が働いたかもしれないが、その立証は難しい。 加えて、政治部との関係だ。マスコミ各社政治部記者にとって官房副長官は有力な情報源。事件を担当する社会部から政治部への忖度は生まれよう。
訴訟と人権
第三は人権上の配慮と、弁護士からの強力な申し入れだ。
文春報道と同時に、木原氏の代理人弁護士から司法記者クラブ各社には「御通知(至急)」という文書が配布された。週刊文春の前日に配信された『文春オンライン』に対してのものなので、7月5日付のものとなる。 木原氏の<私と私の家族に対する想像を絶する著しい人権侵害行為です>という「心情」も記しておりA4版3枚に及ぶ。そのなかの次の一文はマスコミへの十分な抑止効果となる。 <速やかに文藝春秋社及び記事掲載にかかる関与者について刑事告訴を行い、法治国家における、このような取材及び報道のあり方の公正さ、社会相当性について公に問うとともに、法務省の人権擁護機関に対しても救済を求めることになります> 加えて、木原氏夫人のX子さんは木原氏とは別に弁護士を立てており、こちらも「ご通知」という文書を司法記者クラブ各社に送っている。7月28日付では、<7月21日に続き、本日、日本弁護士連合会に人権救済の申し立てをいたしました>と書いた上で、「佐藤証言」についてこう批判した。 <佐藤氏は、恣意的、利己的に「捜査情報」と称する供述を公開し、自らの筋書き通りにならなかった一民間人に対して社会的制裁を加えるという、まさに法治国家を破壊する行動にでたといえます> 訴訟と人権――。マスコミが最も恐れる部分を突いている。
第四は、報じることが訴訟リスクにつながることだ。
なぜ木原氏は刑事告訴しないのか
木原氏あるいはX子さんが名誉毀損で刑事告訴した場合、告訴要件を満たしていれば東京地検特捜部、あるいは警視庁といった捜査機関は受理せざるを得ない。 文春は慎重に取材を重ねているとはいえ、公益性に当たらない部分で名誉毀損と認定され起訴される可能性もある。そうなればなんらかの処分は免れない。 ここが捜査と連動しない調査報道の難しさであり、刑事事件でそうした判断が下されれば、民事での名誉毀損訴訟にも影響を及ぼす。マスコミはその“最悪”を考えて、後追い報道を躊躇する面もある。 そうした要因が重なって、文春報道はマスコミによって拡散されず国民の目に触れない。 木原氏の代理人弁護士が「速やかな刑事告訴」を通告しながら1ヵ月近くも告訴に至っていないので、「記事を止めるのが目的。単なる脅しじゃないか」という批判もある。 しかし筆者が「抑止効果を狙ったものか」という質問書を送ったところ、代理人弁護士から<刑事告訴については、名誉棄損行為が現在もなお継続していることもあり、証拠の収集等準備を進めているところです>という回答が、7月28日、書面であった。そのうえで報道しないのは、マスコミの自主判断だという認識を示した。 <もし報道しようと思えば、各社が自ら取材をし、公益性及び真実性、相当性の有無を精査した上で報道することは可能でありますから、各社におかれては、自らこれら要件充足性についての判断をされ、また文春の報道に上述のような問題を認識された上でのご判断ではないかと拝察いたします> 確かに、圧力や障害があっても、今は取材し報じることが妨げられる環境ではない。
理由を勘案してもおかしい
文春で展開される「他殺説」はX子さんの電話を受けて、当日、現場へ向かったY氏の証言もあって生々しく、説得力がある。捜査員が文春の取材結果を裏打ちし、「(有力政治家だから)ハードルが上がった」などと語っているのは、捜査が中断した事への上層部への不満や不信の表れだろう。
その思いと種雄さんの遺族への申し訳なさが重なったのが、取調官だった佐藤氏の取材対応だった。地方公務員法の守秘義務違反を承知で会見まで開いたのは、「やるしかない」という佐藤氏の強い思いである。 「真実を知りたい」という種雄さんの遺族の会見は、「捜査の中断」を告げられず、5年間も放置された“やるせなさ”を伝えるものだった。佐藤氏の会見は「物証が出たわけではない」(警視庁担当記者)と、事件性をうんぬんする前に前代未聞の告発の“重み”を受け止めるべきだろう。この2つの会見を無視して報じないのは、先の4つの「躊躇する理由」を勘案してもやはりおかしい。 マスコミが「他殺説」の検証を人権への十分な配慮のもとに行えば、それが国民の関心事となって、遺族の刑事告訴を経て再捜査の可能性も出てくる。 不可解な事件という認識のもと、『朝日新聞』の「天声人語」は、8月2日付でこの事件を取り上げて、<副長官が記者会見などで反論しないのも解せない。いったい事実はどこにあるのか。疑念の声がくすぶるのも仕方あるまい>と書いた。 マスコミの沈黙が許されない段階に入っている。
このまま説明責任から逃げ切り、続投なんて許されるのか。
感想;
マスコミが当初オウムに沈黙でした。
その前だと、エイズにも沈黙でした。
大手マスコミは権力側の手足に成り下がってしまったような印象です。
訴訟云々なら「文春」はそれを恐れていません。
逆に訴訟され裁判で真実が明るみに出た方がよいのです。
木原官房副長官の訴訟は脅しだけで、裁判になると一番困るのは、木原官房副長官側です。
警察が動かないなら、遺族側は民事で損害賠償を訴えることです。
日本版シンプトン事件のようです。
また、明治に黒田清隆元首相が妻を殺害したとの報道があり、当時の権力者が同じ薩摩藩の大久保利光がうやむやにしました。
令和の時代でも同じことが起きているのです。
国民が「おかしい、警察は捜査を再開するべき」と声を上げないとスルーするつもりなのでしょう。
検察はえん罪の袴田事件を再度裁判で争うとのことです。
警察と検察は誰のために存在しているのでしょうか?
今の状況だと、自分たちのため、国家権力のために存在していると思ってしまいます。
木原官房副長官も妻が殺害に関与していないなら、警察で再捜査して徹底的に関係ないを確認してもらったらよいのです。
今のままでと、「令和の第二の黒田清隆事件、木原官房副長官妻の元夫殺しの疑惑」として永遠に語り継がれるのです。
人は誰でも間違いを犯します。罪をきちんと償うことではないでしょうか?