・そうして気が付いた。「(癌を)告げるのが正しいのか、隠すのかが正しいのか」というあの「問い」そのものが間違っていたのだ、と。これは、「告げる」か「隠す」のどちらかに正しい答えがある、のではなく、「告げたり」「隠したり」あるいはその他の方法をとりながら、死を迎える患者さんや家族が、よりやすらかな気持ちで死に辿り着けるよう、いっしょに試行錯誤する、そのことの中に大切なものが隠されている、ということではないのか。
・朝八時にぼくの枕元の電話が鳴った。
「先生ですか、西五病棟の看護婦の住田です。今、水道水に溶かした抗けいれん薬をSさんの胃チューブから注入しないといけないのを、私、間違ってIVH(高カロリー輸液のため上大静脈にカテーテルが挿入されている)のラインから入れてしまいました」
凍ったような声だった。・・・
住田さんは青ざめていた。ぼくはSさんを診た。いつもと変わらなかった。症状はこれから出てくるのだろうか、と思い、血管内凝固症候群の出現に備え、何種類かの薬物を指示した。同時に院長や婦長に連絡し、家族にありのままを説明した。・・・
住田さんは、「覆ってあるガーゼを取って、三方活栓から注入したんです。何げなく引いてみたら、血液が逆流してくてハッと気付きました。私、患者さんを死なせかけたんですから、看護婦、辞めます」、と言った。
Sさんの枕元を見ると、胃チューブの端に三方活栓がしてあり、きれいにガーゼで包んで右側に置いてあった。IVHのラインの橋も同様に三方活栓がしてあり、ロックしてきれいにガーゼで包んだ右側に置いてあった。朝の八時前、深夜勤務の看護婦さんに眠気が襲いやすい時間帯だ。住田さんは被告人のような顔をして青ざめていた。
Sさんの方は半日後も一日後も変わりはなかった。
・患者さんと話をしていると、ある言葉を放ったその瞬間何かが動き出す、ということがよくある。いい方に動き出すことも、よくない方に動き出すこともあるが、とにかく動き始めたという実感がする。癌の患者さんとのやりとりの時もそうだ。
・『母への手紙』千葉敦子著
・彼女(千葉敦子さん)は乳房を失い、化学療法で髪を失い、嗅覚、味覚を失い、声を失う。これだけ奪われ、失っても、自分を失わずに立ち続けた。
「私の人生に最も影響を与えた本は」と書いて、千葉さんは二冊の本を挙げていた。
その一冊『地面の底が抜けたんです』藤本とし著(ハンセン病の患者さん)
・千葉さんの本を読んで、一番ハッとし、心に残った言葉は、「癌末期を特別な状況と思わないで」だった。・・・
千葉さんは言う。癌末期を特別だと思って、誰も尋ねてきてくれないし、電話をかけてきてくれない。だったら特別と思わず、いつもどおりに声をかけてくれて、部屋を掃除してくれたり花を飾ってくれた方がいい。私を車椅子に乗せて買い物に連れていってくれたり、喫茶店でコーヒーを飲みながら、生きること死ぬことについて話したりする方が、よっぽどいい。死ぬって、それほど特別なこと? あってはならないこと? そうじゃないでしょ。避けられないことでしょ。話題にしちゃだめなこと? そうじゃないでしょ、話し合う意味のあることでしょ。
・問題は医者だ。病棟から「ちょっと様子が変です」と連絡が入っても、「様子をみて」とか「明日、回診する」と答えて済ましてしまうことがある。ぼくもよくそうする。事件は必ず、そういう時に生じる。初動作が大切だ。大したことなくても、まず体を動かしてベッドサイドに立つこと。すると、必ず何かを発見する。「不整脈だ」「口唇の色が悪い」「抗生物質の投与が長すぎる」「尿量が少ない」「いや脱水だ」。ベッドサイドは不思議な場だ。「SOS」が発信される理由が、そこには宝物のように隠されている。臨床は宝物捜し。宝物捜しの最大のコツは、呼ばれたらなるべく早くベッドサイドに駆けつけ、そこに立つことだ。今までそれをおろそかにしたために、どれだけ痛い目に会い、患者さんや家族をつらい目に合わせたか、と思うと、こうして思いだしていても冷や汗がです。
・「死ぬって、寂しいだろうなあ、侘しいだろうなあ。誰かそばにいて手を握ってあげる仕事をしようか」と思い、医者になることを決めた。
・『死ぬ瞬間の言葉』を読むと面白い症例にぶつかる。
・家族の方から内緒声で電話がかかる。
「農協に出す診断書の死因を自殺以外にのものにして欲しいんです。小さな村なのですぐ村中に知れ渡ります。そんなことできるでしょうか」と問われる。「はい、わかりました」。ぼくは、心不全にしようと思って、引き受ける。
・『我が妻の「死の美学」』亀井俊介著
感想;
経管から入れるのを間違えてIVH(静脈)に入れる例はたまにあるようです。この本のケースは患者さんに問題が起きませんでしたが、経管栄養剤などでは死ぬこともあるでしょう。問題は看護婦のミスを問うより、ミスが起きやすい状況を放置していたことに問題があると思います。三方活栓に表記するや色分けするなどの工夫とかつ処置するときの確認の徹底です。ミスをした人は同じミスはしませんが他の人がしてしまいます。
きちんとミスを家族に伝える、素晴らしいです。隠している病院もあるのではと思いました。
末期だとお見舞いする方もどうしてよいか分からずにお見舞いを躊躇します。その時、家族にお見舞いして良いかどうか確認して良ければお見舞いして、ベッドサイドで日常の会話しても良いし、話せないなら手を握っているだけでも良いのかもしれません。
退院できる短期間であれば、返ってお見舞いは遠慮して欲しいと思いました。なぜならお風呂にも入れない状況です。お見舞いのお気持ちはありがたいのですが受けるのは負担に感じました。
著者は「死ぬって、寂しいだろうなあ、侘しいだろうなあ。誰かそばにいて手を握ってあげる仕事をしようか」と思い、医者になることを決められました。
私は高校3年生になり大学受験の願書を出す時、地方の国立の医学部だとギリギリ受かる可能性がありました。親からは医学部と言われましたが、私は選びませんでした。それは「もし私のミスで患者さんを殺してしまったなら/助けられる患者さんを助けられなかったら、嫌だな」と思ったからです。
著者は患者さんのために、私は自分のためと視点が真逆でした。
今なら、自分のミスを気にする医者なら、患者さんのことを優先的に考えることができる医者になれるかも知れないと思うのですが。
同じことを言われているように思います。
医薬品の品質保証で大切なことは、3ゲン(現場、現物、現実)と5ゲン(原理、原則を追加)の実践です。
現場に行って確認する。現場の人に話を聴く。起きている現実を確認する。そしてそれが、原理原則に合っているかを確認する。
医療の現場でも同じなんだと思いました。
織田裕二主演 『踊る大捜査線』で、織田裕二が警察の上層部に「事件は現場で起きているんだ! 現場を確認せずになにができるか?」の主旨を訴えていました。
どんな場合でも先ずは現場に行って確認することだと思いました。