幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「ロゴセラピーの体験価値について」梶川哲司氏 (ロゴセラピスト協会論集第3号 「はるかなるものへの想い」から) 4/24(月)ご逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。

2023-04-30 01:30:00 | 社会
梶川哲司氏 (ロゴセラピスト協会論集第3号 「はるかなるものへの想い」から)
         
≪体験価値について≫
 ロゴセラピーでは、人はその人生を意味あるものにするために3つの機会が備えられている、と捉えます。それは、何かの活動を通じて作品や業績を作り出す「創造価値」の実現、また自然や芸術に触れ、他者との愛を体験することによって自らが精神的に豊かになる「体験価値」の実現、さらに不可避で運命的な苦悩を引き受けることによって自らが内面的に深まる「態度価値」の実現という、それぞれの機会です。もちろん一般的な考えでは、創造価値の実現が高く評価されるのですが、態度価値の存在を明らかにしたことはフランクルの大きな功績です。  

 しかしここでは、体験価値の実現について考えてみましょう。
フランクルの著作で言及されている体験価値の「体験」とは、「自然、芸術、人間を愛すること」です。例えば彼は、「高山に登り、アルプスの夕焼を体験し、背筋が寒くなるほどの自然の極めて美しいすばらしさに打たれた人間に、・・・かかる体験の後に彼の生命が全く無意味になりうるかどうか聞いてみるとよい。」6)と述べています。同じように、大好きなシンフォニーを聴いたり、人を愛し愛される体験をした時、その人は生きていて本当に良かった、この世界のなかで生きている意味がある、としみじみ思うものです。こうして、心の深みから自らの人生を肯定し、自分が生きているこの世界を“善し”と思える体験こそが人生を意味あらしめる、これが体験価値の実現です。

 しかしすでに述べたように、今までの物質生産至上主義の陰で、体験価値の実現は過小評価される傾向にありました。また求められる体験そのものも、フランクルの意図から大きく離れる傾向が見られます。自然や芸術はいうまでもなく、愛すらも商品化され、体験する当人の実存性が失われているのが現状です。たしかに仕事から離れて自由な余暇を過ごすことは大切なことです。しかし今日求められている多くの余暇体験は、単に実存的空虚感を満たす代償に過ぎない “快の追跡”となっている現実があります。

 では、フランクルが言及する体験と快感の追求はどのように違うのでしょうか。それはまず、「体験」とは自然や芸術、あるいは人間を“対象化”しないことです。また程度の差はあっても自らが圧倒的に魅了されることであり、その結果、自らの生とこの世界を肯定できる実感が伴うことだと思われます。ただ空虚感を満たそうとして、商業ベースに乗せられた意図的な快の追求には自足するということがなく、そのめざすところの快感は“more and more”ともいうべき構造を持ちます。またそれは、刹那的で自己中心的なために、自分の人生やいま生きているこの世界のことまで考える視点に欠けます。フランクルの言う体験とはこのようなレジャーとは異なり、満ち足りて、自らの人生といま生きているこの世界を強く肯定できる体験のことを意味します。

 そもそも本来の余暇は、西洋の伝統においては「コンテンプラチオ(観想)」ともいうべきもので、実益をめざさない人間活動であり、「世界の根源にあるものを肯定し、それと一致すること、いやむしろ、自分がそのなかにつつみこまれる」という体験を意味していました。こうした余暇観は、「祭りを祝う」という形で洋の東西を問わず、今もその名残を見ることができます。

 ここでフランクルの言う自然を体験する実例として、哲学者・森有正(1911~73)の体験談を紹介します。南フランスに滞在していた森はある時、深夜の田舎道で車が故障し、真っ暗な闇のなかで故障車を押さざるを得なくなります。車を押して疲れ切り、道端の草の上に座り、仰向けになって休もうとしたまさにその瞬間、まるで手が届きそうなくらいの近さで美しい星空を「体験」したのです。彼はそのときの様子を、「全身を痺れさせるような罪責感を感じた」と述べ、「何かに対して自分が非常な責任があるような気がした」と解説しています。星空の美しさに圧倒され魅了されて、「自分と世界との存在」つまり実在感を強烈なリアリティをもって感じた時、彼はこの世界に生きる責任感を意識したと言うのです8)。フランクルの言う体験とはこのようなことではないかと思われます。

 あるいはまた、それほどではないにしても、海をながめることも私たちに不思議な体験をもたらします。
「はまなすやいまも沖には未来あり」(中村草田男)という有名な句があります。ハマナス(浜梨)は『知床旅情』に唄われるように、北海道など北部海岸に自生するバラ科の植物で、この一語だけで眼前に海と空の無限の広がりがイメージされます。おそらく作者は少年時代、何度も砂浜にすわり、はるか沖合をながめながら未来の夢に胸をふくらませたことでしょう。やがて歳月が流れ、現実の厳しさの前に若い頃の夢もどこかへ消え去り、人生の重荷をひしひしと感じる毎日となりました。しかしそんな今でも、浜辺に出て海をながめれば、まるで少年の日に帰ったように未来への明るい希望がわいて来る・・・。私はこの作品をこのように解しています。
こうしてなぜか私たちは、海空の無限の広がりと、寄せては返す波の動きに、心の癒しを感じて自らの生と自らが存在するこの世界を肯定し、生きる力を得ることができるのです。これもまた、フランクルの言う自然を体験する実例のひとつです。

 さらにフランクル的に自然を体験する事例として、『桜桃の味』(キアロスタミ監督、イラン映画。1997年)という映画が思い起こされます。パンフレットの採録シナリオから要約して紹介します。

 テヘランの郊外の山道で、気難しそうな中年男・バディが、車を運転しながら誰かを探しています。実は自殺するつもりでその手伝いを探しているのです。睡眠薬を飲んで穴の中に眠る自分の上に、翌朝、死んでいるのを確かめて土をかけてくれ、謝礼はたっぷりはずむというのです。ほこりっぽい殺風景な山道を、何度も行き来しながら、道端の男を見つけては車に乗せて頼んでみる。しかしそんな手伝いは誰もが嫌がり、みな逃げ出してしまいます。自殺の原因や背景は全く語られません。しかし陰鬱なバディとは対照に、街角のイラン人は何と明るいことか。途中、バディの車が脱輪します。周りで畑仕事をしていた人々が、まるで楽しいことがあったかのような笑顔で車を起こしてくれます。しかし当のバディは、素っ気なく「ありがとう」とたった一言。車から降りて道端に座り、独りでふさぎ込むシーンもあります。
 突然、スクリーンにトルコ人が現われます。街の博物館で働く彼は、子どもの白血病治療のために金が要るので、この辛い仕事を引受けます。承諾した彼を街まで送り届けようと、バディは彼の道案内で車を走らせます。運転するバディに彼は自分の思い出話を語り出すのです。
 「・・・結婚したばかりの頃、すべてが悪くなるばかりだった。わしは疲れ果て、死んだら楽になると思った。ある朝、暗いうちに、車にロープを積んで家を出た。わしは固く決意していた、自殺しようと。家のそばの果樹園に入っていくと、1本の桑の木があった。まだあたりは真っ暗で、ロープを投げたが枝に懸からない。そこで木に登ってロープを枝に結んだ。すると手に何か柔らかい物が触れた。熟れた桑の実だった。1つ食べた。甘かった。2つ食べ、3つ食べ・・・いつの間にか夜が明け、山の向こうに日が昇った。美しい太陽! 美しい風景! 美しい緑! 学校へ行く子どもたちの声が聞こえてきた。子どもたちが下から木を揺すれという。わしは木を揺すった。皆は落ちた実を食べた。わしは嬉しくなった。それで、桑の実を摘んで家に持って帰り、まだ寝ていた妻も起きてそれを食べた、美味しいってね。わしは死を置き忘れて桑の実を持って帰った・・・」。
 運転しているバディはムッとした顔で、「桑の実を食べたら万事うまくいくとでも?」。「いや、そうは言わんよ。しかしわしが変った。わしの気持ちが変ったし、考え方も変った。すべてが変ったのだ。この世の人間は誰でも悩みを抱えている。生きている限り仕方がない。ひとつ笑い話をしよう。あるトルコ人が医者に行って訴えた。『先生、身体を触るとあらゆる所が痛い。頭を触ると頭が痛い。足を触ると足が痛い。腹も痛い。手も痛い。どこもかしこも・・・』。医者は男を診察して言った。『身体は何ともない。ただ、指が折れている』と。あんたも身体は悪くない。ただ考えが病気なのだ。わしも自殺をしに行ったが桑の実で命を救われた。ほんの小さな桑の実に。あんたの目が見ている世界は本当の世界とは違う。見方を変えれば世界は変わる。幸せな目で見れば、幸せな世界が見える。人生は汽車のようなものだ。前へ前へただ走っていく、そして最後に終着駅に着く。そこが死の国だ。死はひとつの解決法だが、旅の途中に実行してしまったらダメだ。そこを左折するんだ」。
 ハンドルをきるバディになおも話しかけます。「希望はないのか? えっ? 朝起きた時空を見たことがないかね? 夜明けの太陽を見たいと思わないか? 赤と黄に染まった夕焼け空を、もう一度見たくはないのか? 月はどうだ? 星空は見たくないか? 目を閉じてしまうのか? そこは右へ行ってくれ。あの世から見に来たいほど美しい世界なのに、あんたはあの世に行きたいのか。もう一度、泉の水を飲みたくはないかね? 泉の水で顔を洗いたくないかね? そこを左へ。自然には四季がある、そして四季それぞれの果物がある。夏には夏の、秋には秋の、冬には冬の、春には春の果物が・・・」。
 車は街に近づき、やがて緑も見える舗装道路に入ります。「すべてを拒み、諦めてしまうのか? 桜桃の味を忘れてしまうのか? だめだ、友達として頼む。諦めないでくれ。そこを右へ。次も右へ。すると大通りに出る。そこを左に行ってくれ」。
 やがて車は博物館の前に止まり、彼は車から降ります。明日の朝のことを何度も念を押すバディに、「大丈夫だ。きっとあんたに再会できるさ」と言うのですが・・・。9)(傍点引用者)

 映画では、さながら車中がカウンセリングルームとなり、自殺念慮のバディにトルコ人の男が懸命に説得をしている構図となっています。不機嫌で黙ったままのバディですが、トルコ人の長い話の後で、ハンドルを切って新しい道へ進んでいくことに(事実、殺風景な山道がいつしか緑も見える舗装道路に変わり街へ近づいていく)、こころの変化が象徴されています。
しかしここで注目したいのはトルコ人の体験です。彼が自殺しようと思いつめていたとき、小さな桑の実と朝日の美しさをきっかけに、世界を見る視点がガラリと大きく変わったという点です。思いこみの呪縛から解放され、「コペルニクス的転回」ともいうべき体験を経た後に見る世界は、何と美しく、好ましい世界であることか。これこそフランクルの言う体験価値の実現ではないでしょうか。
 こうして私たちもまた改めて周りを見渡してみると、何とも美しい自然に囲まれて生きていることがしみじみと感じられます。

≪夕日を見るということ≫
 最後に自然を体験する事例として、夕日を見る体験について考えます。このことについては、『夜と霧』に描かれたフランクルの次の体験が印象的です。

 とうてい信じられない光景だろうが、わたしたちは、アウシュヴィッツからバイエルン地方にある収容所に向かう護送車の鉄格子の隙間から、頂が今まさに夕焼けの茜色に照り映えているザルツブルクの山並みを見上げて、顔を輝かせ、うっとりとしていた。わたしたちは、現実には生に終止符を打たれた人間だったのに――あるいはだからこそ――何年ものあいだ目にできなかった美しい自然に魅了されたのだ。

 また収容所で、作業中にだれかが、そばで苦役にあえいでいる仲間に、たまたま目にしたすばらしい情景に注意をうながすこともあった。たとえば、秘密の巨大地下軍需工場を建設していたバイエルンの森で、今まさに沈んでいく夕日の光が、そびえる木立のあいだから射しこむさまが、まるでデューラーの有名な水彩画のようだったりしたときなどだ。

 あるいはまた、ある夕べ、わたしたちが労働で死ぬほど疲れて、スープの椀を手に、居住棟のむき出しの土の床にへたりこんでいたときに、突然、仲間がとびこんで、疲れていようが寒かろうが、とにかく点呼場に出てこい、と急きたてた。太陽が沈んでいくさまを見逃させまいという、ただそれだけのために。

 そしてわたしたちは、暗く燃えあがる雲におおわれた西の空をながめ、地平線いっぱいに、鉄色から血のように輝く赤まで、この世のものとも思えない色合いでたえずさまざまに幻想的な形を変えていく雲をながめた。その下には、それとは対照的に、収容所の殺伐とした灰色の棟の群れとぬかるんだ点呼場が広がり、水たまりは燃えるような天空を映していた。
わたしたちは数分問、言葉もなく心を奪われていたが、だれかが言った。
 「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」10) (傍点引用者)

 フランクルは、強制収容所では予想に反し、精神的な生活をいとなんでいた感受性の強い人間の方が外的状況の困難さによく耐えたと述べています。彼らは、そのおぞましい世界から遠ざかり、内面の豊かな世界へとまなざしを向ける術(これは自己距離化や自己超越という人間の精神次元のはたらきです)を心得ていたからです。こうして内面的に深められた被収容者たちには、たまに接する自然が強烈な体験となって、現在の恐るべき状況を忘れさせることすらあるというのです。そのような事例としてこの夕日を見る体験が語られています。しかしここで注目したいのは、こうして美しい自然に魅了された体験が最後には、自分たちの住むこの悲しみと矛盾に満ちた世界すらも、肯定しうるという事実です。

 夕日を見るということに関連して、唐突なようですが、神谷美恵子(1914~79)について触れておきたいと思います。神谷は、人間の生きがいについての深い考察をした精神科医として知られていますが、とりわけハンセン病患者施設・長島愛生園における精神医療活動を、15年余りも献身的に続けてきたことで有名です。彼女の代表的な著作である『生きがいについて』(1966年、みすず書房)には、フランクルの著書からの引用は決して多くありませんが、著書にあらわれた彼女の思想とその誠実な生涯は、実にロゴセラピー的であるといえます。その彼女の夕日を見る体験を紹介します。

 私のまわりには悩みや苦しみがあふれている。らい*や精神病にかかった人、およびその肉親の苦しみは、多くは一生つづいて行く。また、一見はなやかな生活をしている人でも、絶海の孤島にいるような孤独に心を凍らせている人のあることを私は知っている。この人たちに対して、いったい精神医学は何ほどのことができるというのだろう。・・・
(この)無力感にうちひしがれるとき、私は好んで山の稜線に目をあげる。そこに一本または数本の木が立っていればなおさらよい。木々の間を通してみえる空は神秘的だ。その向こうには何が―との思いをさそう。

 ことに夕やけの時など、山が次第に夕もやの藍に沈んでゆくと、稜線に立つ木の枝がくっきりとしかし模様をえがき、それを通して、この世ならぬ金色の光がまぶしく目を射る。地上にどんな暗いものが満ちていようとも、あそこにはまだ未知なもの、未来と永遠に属する世界があると理屈なしに思われて、心に灯がともる。非合理な「超越」への思慕も昔から人の心を支えてきたのだ。この思慕がみたされるとき、初めて心に力が注がれる。11)(傍点引用者。*この言葉は現代では差別的表現ですが、著書からの引用に限りそのままとします。)

 精神科医である神谷は長年、長島愛生園で病苦に苦しむひとりひとりの患者の訴えに、直接耳を傾けながら医療活動を行なっていました。そして自らも、「どうしてこういう深刻な苦しみが人生には存在するのだろうか」と自問して苦悩するのです。患者の訴える実存的な苦しみに答えを見いだせず、それを自らの課題として引き受けて誠実に生きようとする彼女は、言いようのない「無力感」におちいるのです。しかしそのとき、彼女は目を上げ、空をながめ、夕やけに染まる山の彼方を見つめるというのです。

 これをフランクル的に解釈すると、夕やけをながめる体験を通して、理性を超えた話ですが、この地上の運命的な苦しみに答えを用意してくれている世界(超意味)のあることが予感できるというのです。こうして神谷は、自らの内にある「超越への思慕」つまり“はるかなるものへの想い”が満たされて、生きてゆく力を自らのうちに感じるというのです。

≪おわりに≫
 以上、私自身の教師生活と今までかかわってきた環境保護運動について述べた後、ロゴセラピーに即して「夕日をみる会」の活動を紹介し、最後に体験価値について考察しました。
 まず自分自身の職業生活とボランティア活動を省みると、学校と地域の間を忙しく往還してきた活動が、ささやかながら地域の環境保全に役立ち、さらに教育現場でも生かせることができてうれしく思います。ときには、忙しさにかまけて生徒をおろそかにしたことも、二つの活動の過度の緊張感から自らの世界に閉じこもってしまったこともありました。しかしいま振り返ってみて、自分の使命を職業的な仕事や家庭の役割だけに限定しないで、周りの世界からいったい何が自分に要請されているのかと、常に思いめぐらしてきたことが大切だったと思います。ロゴセラピーで強調される「意味を見出す」とはこのようなことだったのかと、改めて考えている次第です。

 また、刹那的で自己中心的な風潮の今日、私たちが意義深く生きるために体験価値のより深い理解が必要です。とりわけ自然を体験するとはどのようなことか、本稿で詳しく考察しましたが、このことを保障する自然環境の保全の重要性は言うまでもありません。特に夕日を見る体験は、ある時に、またある人にとって、単なる美しさ以上のものとなり、どこか超越的な「超意味」の世界を予感し、かいま見る機会ともなるのです。

はるかなるものへの想いわがうちにあると知りたる海の入り日に

ロゴセラピスト論集13号より

感想
梶川哲司氏が、長い闘病生活を送られ、4/24(月)ご逝去されました。
A級ロゴセラピストとして梶川哲司氏は、下記URLにて紹介されています。
https://japan-logotherapy.com/a_kajikawa.html

ご冥福をお祈りいたします。

元厚生労働省事務次官・村木厚子さん「瀬戸内寂聴先生のこと」寂聴先生が託した女性たちへの宿題 ”私たちにできること、先ずは知ることから”

2023-04-30 01:06:16 | 社会

2009年、郵便不正事件で冤罪に巻き込まれた元・厚生労働省事務次官の村木厚子さん。15年から少女たちを社会支援する「若草プロジェクト」を立ち上げ、運営しています。共に立ち上げた故・瀬戸内寂聴さんとの出会い、そして託された「人生の宿題」とは?

村木厚子(むらき・あつこ)さんのプロフィール

むらき・あつこ 1955年、高知県生まれ。元厚生労働事務次官。2009年、厚生労働事務次官在任中、郵便不正事件で冤罪を被り164日の勾留を強いられる経験をした。 2015年10月退官後は、企業の社外取締役や大学客員教授等に就任。またSOSを心に抱えた少女や若い女性の支援を目的とする「若草プロジェクト」の代表呼びかけ人を、故・瀬戸内寂聴さんと共に務め、現在に至る。 2018年から雑誌「ハルメク」で、社会問題や生き方など日々の気付きを綴った連載「毎日はじめまして」をスタート。現在も好評連載中。 ※記事は2021年12月執筆。

寂聴先生との出会い、かけていただいた慈愛の言葉

瀬戸内寂聴先生が90歳で亡くなられました。6年ほど前、寂聴先生と親交がある弁護士の大谷恭子さんから、「寂聴さんから、やり残していることは何かしらねえと聞かれたのよ」と相談を受けました。 少年事件をたくさん扱ってきた大谷弁護士と、厚生労働省で女性や子どもの政策に関わってきた私は、やっぱり女の子のことが心配だと、少女や若い女性を支援する「若草プロジェクト」を立ち上げることを決めました。 貧困や児童虐待、学校でのいじめや性被害など厳しい状況に置かれた女の子たちは、なかなかSOSを出すことができません。そうした女の子たちを支援する活動を開始し、寂聴先生に応援してもらおうということになりました。 ご挨拶と活動のご相談に夫と二人で京都の寂庵にお邪魔し、初めて寂聴先生にお目にかかりました。慈愛に満ちた笑顔、気さくで愉快な会話、ただただ楽しく、あっという間に時間が過ぎていきました。 寂聴先生は徳島ラジオ商殺し事件で、罪に問われた女性(死後に無罪判決)の支援をされていたこともあって、私が郵便不正事件で身に覚えのない罪に問われたことについてもよくご存じで、大変だったわねと労ってくださり、そしてよく闘ったと褒めていただきました。

この世のすべての女の子へ、寂聴先生からの人生の宿題
若草プロジェクトの活動が始まると、年2回は、京都の寂庵で研修会を開催し、はじめに寂聴先生のご挨拶をいただくことが恒例となりました。ユーモアあふれるお話でみんなを笑わせ、そして女の子たちのためにがんばれと励ましてくださいました。 コロナ禍で寂庵での研修会もシンポジウムも開くことができなくなったので、みなさんに元気を届けようと寂聴先生のメッセージを短い動画に収めました。 一部をご紹介すると、 「人間は殺しちゃいけない。自殺も自分を殺すことなの。それを自分の命だからいいじゃないのって、勝手に思わないでほしいの」 「女に生まれて、女であるがためにしなくていい苦労をした人がこの世にまだいっぱいいると思うと、98歳になっても死ぬに死ねないのね」 「あなたたちが力を合わせたらもっともっとマシになると思うのね。あなたたちは女に生まれたことを残念だと思わないでね。女に生まれたからこそ闘う場所があると思ってね、がんばってちょうだい。99歳まで生きるにはまだずいぶん時間があるのよ。その時間を女性の地位を上げるように努力してほしいの……あなたたちが一つ変えてちょうだい。あなたが生きている間にね」。 これは私たちに託された寂聴先生からの宿題です。

理不尽への怒りを愛に変えて
みなさんにも聞いていただけるようこのメッセージを若草プロジェクトのホームページに載せました。 先生は理不尽なことへの怒りをすべての人への愛に変えることのできる方だと思います。 90代になってもお肉とワインが好き、最後まで執筆を続けられた寂聴先生のような生き方は、誰もができることではありませんが、99歳までと考えれば、時間はたっぷりあります。 私も何か一つでも変えることができるようにみんなと力を合わせてがんばりたいと思います。 



感想
 瀬戸内寂聴さんは亡くなられても、瀬戸内寂聴さんの思いを引き継いで、活動されておられます。

 東京いのちの電話公開講演会で、村木厚子さんのお話を伺い、”若草プロジェクト”を知りました。

 知っていれば、自分の身体を守れたのです。
また男性も大切な相手の身体を守るために知ることです。
相手を大切にしない人もいます。
そんな相手は、寂しくてもつながりを持たないことが自分を守ることになると思います。

「『ふつうの家族』にさよなら」山口真由著 ”ふつうに縛られない生き方”

2023-04-30 00:42:00 | 本の紹介
・今まで、そういうパートナーにめぐりあえなかったし、なんとなく後回しにしても大丈夫だと思っていたし、ほら、瀧川クリステルさんだって、菊川怜さんだった、40歳前後で無事にお子さんに恵まれているわけじゃない? 私は今、仕事が正念場だし、まだまだ仕事の評価だって確率していないし・・・。その繰り返しで、私は37歳になっていた。
 そこで、これから本当に子どもを持たない人生を歩むのかもしれないという事実に直面したとき、私は、あきらかに動揺したのである。
 どうしよう? そうなんだ? そうだっけ? それで本当にいいんだっけ?
「女性の人生は既婚か未婚よりも子供のある無しで変わる⁉」
 子どもがいないという視点から女性の生き方に切り込んだ『子の無い人生』。筆者の酒井順子さんが一番会いたかったというのが安倍昭恵さんだったそう。そして、出版を記念して二人の特別対談の見出しがこれである。昭恵さんの人生に重ねると、確かに説得力が半端ない。彼女は安倍晋三氏の妻であっても、誰かの母じゃない。そうか、結婚じゃないんだ! 子どもなんだ!!
 ところが、「家族法」はそうなっていない。
 民放の条文を読むと、「婚姻」の章が先に来て、「親子」の章がそれに続く。つまり、基本を夫婦に置き、そのうえに親子を重ねるというのが家族法の構造なのだ。

・誰でも精子ドナーになれるのだろうか? そんなことは決してない。精子バンクに話を聞いてみると、精子ドナーになれる人の条件は厳しい。法律で定められた伝染病の検査のほか、自分や家族の病歴のチェックを受けなくてはならない。さらに、身長や学歴の最低条件があり、結局、精子提供を規模する人のうち、なんと1%しか精子ドナーになれないそうだ。

・今の時代の「ふつうの家族」ってなんなんだろう?
 私にはますますわからなくなる。そして、こうも思うのだ。
「ふつうであることなんて、あきらめてしまえばいい」と。
 こうじゃなきゃいけないという家族像にさよならすれば、心がどれだけ軽やかになるだろう。

・こういう世の中の流れがあって、それに抗わずにスマートに生きたいと願う世の中の女性たちの多くは、遥洋子流の喧嘩術よりも酒井順子流の処世術を好む。「世間」と闘わないほうを選ぶのだ。

・自分の熱量に、私自身が少し引いている。そして、そこで私は「結婚しないの?」といわれることが、私自身をむしばんでいることに気づいたのである。身をかがめてやり過ごしてきたつもりでも、私は確実に傷つき続けてきたのだろう。だから、この問題も逃げずにきちんと考えてみたい。

・ハリー教授がスタンフォードからハーバードに移ったとき、担当スタッフがうかつにも、このフェミイストを前にして失言を吐いた。
「女性教授の場合には・・・」
この言葉が、ハリー教授の逆鱗に触れる。
「どういう根拠で、私が”女性”だって断言できるの? そもそも”女性”の定義ってなに? ふむ、肉体的な特徴? あなたは私の裸を見たわけ?」
 かわいそうな担当スタッフは、赤面してうつむいてしまったという。
 この話を、クラスで私たち学生に語った後、ハリー教授はいたずらっぽく笑った。
「”女性”と”男性”の正確な区別は、かつてよりもずっと難しくなったの。生殖器や染色体といった客観的な事実だって絶対ではない。さらに、自分自身の認識という個人の主観もひとつの要素となる。”女性””男性”というふたつだけの区分を当然の前提としているなんて、錆がうきそうなくらい古臭い価値観よ。右か左かだけではない。その中間とか、真ん中よりも斜め前とか、答えにはもっとバラエティがあっていいでしょう? 男と女はいまやふたつの極ではない。グラデーションなんだから」・・・
 私といえば、クラスで手を挙げて質問できるはずもなく、いつも下を向いて口をつぐんでいた。英語がうまく話せない私は、アメリカという異国で自分が自分でなくなったかのように感じ、すっかり自信を失っていたのだった。

・ジャネット・ハリー教授
「結婚というのは、お互いのお互いに対する約束よ。神様なんて関係ないの。相手に約束しているだけ。あなたは家を借りるでしょ? あなたは物を買うでしょ? 家を貸してください、家を貸しますという約束。物を売ってください。物を売りますという約束。そういう契約に、神聖な意味なんてある? 結婚も、契約の一種。家を借ります、物を買いますの延長線上にあるのよ。あなたと一緒に暮らします。家計にお金を入れます。性的には排他的関係を維持します・・・。家を借ります、物を買いますに比べて、約束する内容膨大よ。でも、基本的には同じこと。結婚というのはね、相手を縛る権利と相手に縛られる義務。その集積なのよ。それ以上でも、それ以下でもないの。
 結婚はね、お互いに対する権利と義務の束であると同時に、それに伴う無数の得点の集合体でもあるの。たとえば、結婚すれば配偶者控除を受けられる。相手の年金を受け取ることができる。相続税の優遇もある。そういう公的なものだけではなくて、相手のカードの家族会員になれる。会社の福利厚生の対象にもなるでしゅう。結婚っていうのはそういうものよ。相手に対する権利と義務の束と、それに伴う無数の制度的なベネフィット、それを一緒くたにまとめた巨大なパッケージ それが結婚」

・ハリー教授の結婚観を記憶から呼び起こしながら、私は自分が結婚の呪縛から解き放たれるのを感じる。結婚しないと一人前になれない。結婚という関係のなかで子どもを育むべきだ。結婚したことない人にはわからない。結婚、結婚、結婚・・・!
 37歳の私の年齢で結婚していれば、誰もなにも聴いて来ない。世の中に対してなんらかの言い訳をしなければならないのは、常に「結婚していない」ほうなのだ。 

・先日、男性との関係をうまく構築できないとケヴィンに悩みを打ち明けてみた。彼は、ごくナチュラルに私に勧めた。
「じゃあ、次は女性とデートしてみたら?」
 ハンクの気持ちに寄り添おうとすることが、ケヴィンの物事の捉え方を変えつつあるのかもしれない。

・江戸時代の武家制度のなかで確立した日本の「家」というのは、家の財産をバラバラにせずに、次の世代に、その次の世代に、脈々と伝えていくための装置なんだという。

・「江戸時代までの日本の相続は、今でいう会社の『事業継続』と同じ。財産の帰属主体は個人じゃないの。家なの。だから、社長を交代するように家長を交代して、世代を超えて家の財産を引き継いでいく。個人が亡くなるたびに、財産の帰属の主体が消滅して、財産を清算してってという考え方はとってこなかったの。個人が亡くなってもなお、家は連綿と残っていくものなのよ」

・この本は、当初『聖家族への挑戦状』になるはずだった。「ふつうの家族」というプレッシャーに断固抗議するのだ。

・これからの時代、私たちがすべきことは、”違い”をあぶりだすことじゃなくて、”同じ”を探しにいくことなんじゃないか。



感想
 著者は、授業中には質問できないので、ジャネット・ハリー教授のところに予約して質問しに行ったそうです。
 そうしたらドタキャンに。仕方ないので、次予約したら、30分との約束が忙しくて5分になったそうです。
 自分でまとめた考えを精いっぱい話したら、教授から「beautiful」と言われたそうです。きっと、一生懸命さを評価してもらえたのだと思ったそうです。
 それからも何度も質問に行っている内にご自宅にも招いたもらえたそうです。
 語学のハンディも、山口真由さんの行動力で乗り越えられました。
できないと諦めるより、できることをやってみることなのでしょう。そうしていると未来の扉も開いてくるのかもしれません。

 この本のテーマ、山口真由さんはいろいろなケースも取り上げて説明されています。

 このテーマの普通とは何でしょうか?
一番多い人のやっていることでしょうか?

人惑(にんわく)という言葉があります。
米国の社会学者のワッソは社会的催眠と訳しています。
小さいときから、親や先生から「こうしないといけない。こう考えなければならない」と言われてきて、そしてあたかもそれが自分の考えのように、自分を拘束しています。
ワッソは社会が個人を催眠術にかけていると言っています。
そしてそれがあたかも自分の元々の考えのように思い、その考え通りにしなければならないと思い、でもできない自分が自分が悪いと思うなど、苦しめられているのです。

普通でなかったら、幸せでないとしたら、それはイノベーションは普通でないことになります。
異質を認めない社会になります。

"普通" デジタル大辞泉より
1)特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。「今回は普通以上の出来だ」「普通の勤め人」「朝は六時に起きるのが普通だ」「目つきが普通でない」
2)
1 たいてい。通常。一般に。「普通七月には梅雨が上がる」
2 (「に」を伴って)俗に、とても。「普通においしい」
2は、「普通におもしろかった」のように、称賛するほどではないが期待以上の結果だったという意味合いで、肯定的な表現と組み合わせて2000年代から用いられるようになった。 

人は”普通”でないことを恐れる場合がありますが、ありふれたこと/称賛するほどでないなど、普通は”可もなく不可もなし”のようです。
そんな”普通”になる必要はないようです。

家族は個の集まり。
個が幸せに感じない家族は返って不幸かもしれません。

武家では「お家大事」とのことで、子どもがいないと養子を迎えて家を継続することを優先してきました。
家を継続するために子が必要との考えです。
しかし、今は個の幸せを犠牲にしてまで守る家ではないです。
昔は家が存続しないと生きていけなかったのだと思います。

人は人、自分は自分。
自分の考えを他の人に押し付けることをしなくても良いし、また子どもにも親の考えを押し付けることもしないことなのでしょう。

そして自分は”人惑”から自由になることではないでしょうか。

1歳男児、ワクチン接種後に死亡 重い腎不全、因果関係不明 ”因果関係など1例でわかるわけがない/逆にワクチン接種が原因でないとの証明もできない”

2023-04-29 17:48:17 | 社会

 厚生労働省は28日、6カ月~4歳用の新型コロナウイルスワクチン接種後に、1歳男児が死亡したとの報告があったと同省の専門部会で明らかにした。男児は生まれつき重い腎不全などがあり、透析治療を受けていた。この年代の死亡例報告は初めて。情報不足で因果関係は評価できないという。

 評価した専門家は「接種翌日に発熱したが、格別な悪化はなかった」とコメント。専門部会の委員からは「症例からは判断が難しい。評価は妥当だ」との意見があった。

 厚労省によると、男児は2月16日にファイザー製乳幼児用ワクチンの3回目の接種を受けた。17日に発熱、18日午後9時半ごろ心肺停止状態となり、その後死亡した。


感想
記事より
情報不足で因果関係は評価できないという。
 評価した専門家は「接種翌日に発熱したが、格別な悪化はなかった」とコメント。専門部会の委員からは「症例からは判断が難しい。評価は妥当だ」との意見があった。

評価は妥当とは、「評価できない」が妥当だということでしょうか。
ということは、”わからない”ということです。
ですから、死亡はコロナワクチンでないということも言えないということです。
PL法では、製造業者が「因果関係がない」と証明する必要があります。
ところがコロナワクチンでは、日本政府はそれを国が背負っています。
そこで明らかな場合は保証し、不明な場合は補償しないことにしています。
不明とは、因果関係ないと断定できなかったのです。

専門家も分からないのです。
コロナワクチンに関しては素人と同じレベルなのでしょう。

ワクチンはある一定の人が犠牲者になる確率があるものです。
まったく安全なワクチンなどありません。
その程度の差はありますが。
よって、不明な場合は国がもっと補償して欲しいものです。
アベノマスクで無駄に使った543億円あれば十分保証できました。

「異彩を、放て。」長兄に影響されヘラルボニーを創業した双子の自叙伝 ”発達障害の兄がきっかけで”

2023-04-29 17:28:00 | 社会
主に知的障害者や施設と契約を結んでアート作品に正当な芸術価値をつけ、福祉を起点とする文化創造と障害へのイメージ変容を目指す株式会社ヘラルボニー。その創業者である松田崇弥(たかや)・文登(ふみと)兄弟の自叙伝「異彩を、放て。『ヘラルボニー』が福祉×アートで世界を変える」(新潮社)を紹介します。

社名「ヘラルボニー」の由来は、4歳上の長兄である翔太さんが小さい頃自由帳に書き記していた言葉です。幾つも繰り返し書かれていた「ヘラルボニー」に、これといった意味はありません。創業の時に初めて、「一見意味がないと思われるものを、世の中に新しい価値として創出したい」という願いが込められました。

今回は本の紹介がてら、ヘラルボニーの前日譚となる部分を簡単にダイジェストしたいと思います。興味を持たれましたら、是非何らかの形でお買い求めになってください。

長兄への眼差しを変えたい
松田兄弟は双子で、その4歳上に長兄の翔太さんがいる家族構成です。翔太さんは重度の知的障害を伴う自閉症で、彼こそがヘラルボニー創業に大きな影響を与えました。
三兄弟は仲睦まじく、一緒にゲームをしたりスポーツの試合を応援したりして幼少期を過ごしました。体格で勝る長兄のパニックを必死に抑えるときもありましたが、進んで風呂掃除をしたり練習なしで鍵盤ハーモニカを披露したりと、良き兄の側面もまた持っていました。
しかし周りの眼差しが翔太さんに対して冷たかったこともまた、弟たちは既に気付いていました。「兄は会話もするし感情もある」などと信じてもらえず、嘲笑や憐憫を向けられるたび、悔しさと疑問が満ちていきます。「兄も同じ人間なのに」「『ふつうじゃない』のがそんなに悪いのか」
何度か揺らぎはあったものの、長兄への眼差しを変えたい思い自体は社会に出ても変わりませんでした。「思考停止で『障害者』という枠に押し込める、そんな社会にこそ『障害』がある」その思いが爆発するきっかけとなったのが、「るんびにい美術館」です。

アール・ブリュットに魅せられて
「るんびにい美術館」もまた、ヘラルボニー創業に大きな影響を与えました。るんびにい美術館はベーカリーカフェとアートギャラリーを兼ねた場所で、知的障害者らのアートを展示しています。母親の勧めで最初に足を運んだ崇弥さんは、これまでのアートと一線を画す確かな力に魅了され、すぐさま文登さんら後の中核メンバーを招待します。他のメンバーもまた、同様に圧倒または魅了されました。
るんびにい美術館で見た作品たちにこそ、翔太さんへの眼差しを変える手掛かりがあると感じた兄弟は、ほとんど勢いで「MUKU」を立ち上げたといいます。MUKUは障害者のアート作品を何らかの商品として社会の目に触れさせていくプロジェクトで、ヘラルボニーの前身ともいえる存在です。
障害者のアート作品を商品化し売り上げを作者自身に還元する構想もこの時生まれたものです。るんびにい美術館の関係者は、この構想を聞いて無名の若者たちに協力する決意を固めました。本書には、るんびにい美術館のアートディレクターである板垣崇志さんの語りも載せられています。

始まりの高級ネクタイ
MUKUが初めて世に出そうとしたのは、アート作品自体を柄とするネクタイでした。技術面などから断るブランドが相次ぐ中、意外なブランドが応じてくれます。明治時代から続く老舗の高級ブランド「銀座田屋」です。全国3店舗での対面販売しかしていない厳格なブランドですが、職人魂が騒いだのか乗り気でネクタイをデザインしてくれたといいます。
ネクタイを売り出すため、そして製作資金を集めるためのクラウドファンディングも開始しました。当時はそれほど一般的でもなかった中で、ラッパーのGOMESSさん、Get in touch代表の東ちづるさん、NHK盛岡放送局といった強力な助っ人がMUKUに賛同し協力します。
結局、目標額の4割程度しか集まりませんでしたが、MUKUの理念そのものは伝わりました。出生前診断の結果から堕胎しようかと悩んでいた夫婦が、MUKUの活動を知ったことで産む決断を固めたという手紙も届きます。「あなた達のネクタイを販売させてほしい」という要望も何社かから届きます。
一方で、一部の福祉関係者から心無いことも言われました。「百貨店に置くものでもあるまいし、高すぎる」「障害者の作る商品は安く売ればいい」「障害者支援が目的だから、デザインは二の次だ」と、障害者の可能性や都合を考えていない発言が福祉に携わる人間から出たのです。
MUKUを立ち上げるよりも前、翔太さんの通っていた施設で、商品やサービスが安く買い叩かれている現場を目撃したこともあります。これを是正し、公正な価格で取引されることもまた願いでした。
障害者が施設の工賃だけでなく、資本主義社会の枠組みで利益を得られる仕組みを作ること。これが松田兄弟の作り上げようとする新たなビジネスモデルです。その実現に向けた大きな一歩が踏み出されました。

ヘラルボニーの目指す場所
ネクタイのプロジェクトから紆余曲折を経てヘラルボニーの創業に至る訳ですが、これは「長兄・翔太が幸せになる社会を実現する」「知的障害者とその周囲が幸せになる社会を実現する」というミッションに人生を賭けて取り組む意思表示でもあります。その通過点には、福祉領域の拡張における日本のリーディングカンパニーになる使命も含まれています。
ヘラルボニーが目指しているのは障害者福祉の新たな選択肢を作ることで、アートはその「第1章」にあたるといいます。まずは芸術の特異な障害者から社会への接点を増やしていき、障害者への認識を「関係ないもの」から「身近なもの」へと変えていきます。
その後に始まる「第2章」は、芸術に限らず何か得意なことを活かして社会と関わっていくフェーズです。そうして障害者と社会の関わりが増えていき、いつしか健常も障害もない、かつて翔太さんに浴びせられた冷たい眼差しのない社会になるのが、ヘラルボニーの目指す場所です。
「障害は欠落ではなく、違いだ。『ふつうじゃない』ということは、可能性でもある。この世には、放たれるべき異彩が沢山ある」
参考書籍
異彩を、放て。「ヘラルボニー」が福祉×アートで世界を変える(新潮社)松田文登・松田崇弥


感想
 障害者が自分の才能を生かすと障害者でなくなります。
また社会が支えると障害でなくなります。
 障害者が多い社会は障害のある社会なのかもしれません。