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カネボウ解体10年 クラシエめざす「普通の会社」とは ”トップの考え方に左右される”

2017-08-31 09:48:48 | 社会
http://digital.asahi.com/articles/ASK7B513GK7BULFA01Z.html?rm=428朝日新聞 村井七緒子2017年7月27日
 旧カネボウを引き継いだクラシエホールディングス(HD)が、7月で社名変更から10年たった。事業規模は当初約7分の1に縮小、めざしたのは何よりも「普通の会社」になることだった。粉飾決算、会社の解体――。過去の失敗に学ぶ10年だった。

 東京都港区のクラシエ本社受付の隣に、シャンプーや漢方薬、お菓子などが並ぶ「売り場」がある。商品は買えない。取引先を案内するスペースだ。クラシエHDは傘下に「日用品」「薬品」「食品」の3事業会社を置く。他事業の商品にも触れてもらうためだ。

 宣伝販促チームの提案で昨春に設けた。こんな工夫でも、「事業間の壁が厚い旧カネボウ時代にはありえなかった」(担当者)。
 「たこつぼから出ろ」
 カネボウ出身で、2009年に社長についた石橋康哉氏(61)は何度も説いてきた。事業ごとに別だった支社を統合。社内会議も一緒に開くようになった。「事業間の対話が増えれば、新しい発想を生み出す機会も増す。カネボウが普通じゃなかった」と話す。

 「売り上げ至上主義」からの脱却もカネボウ時代の反省だ。かつてはノルマ達成のため、採算度外視の営業が常態化した。だが、「売り上げから利益第一に、優先順位が変わった」(岩倉昌弘クラシエHD専務)。生産現場が握っていた原価の情報を社内で開示して営業職も利益を意識しやすくし、人事評価の項目も、売り上げから利益重視に転換した。

 ヒット商品も生まれるようになった。ヘアケアの「いち髪」は年間売り上げ100億円を超える一大ブランドに。クラシエHDの営業損益は11年度から黒字化し、16年度は過去最高の54億円になった。

 会社は6月、カネボウの混乱とクラシエの歩みをまとめた10年史を発行した。石橋氏は「カネボウとは何だったのか、なぜ社名変更しなければならなかったのか。当社がたどった道を残すことは使命だ」と語る。

 カネボウは1887年創業の名門企業。化粧品や食品に参入して多角化、「ペンタゴン経営」ともてはやされた。だが、主力の繊維事業が競争力を失って空中分解した。

 2004年に産業再生機構が支援、粉飾決算の発覚、そして上場廃止。事業整理でほとんどの事業を手放した。10年史には、「職を失うのか。体中が凍りついた」という社員の声がつづられている。

 つらい経験があるからこそ、石橋氏は「安心して働ける普通の会社を目指してきた」。一時は住宅ローンを銀行から断られた社員もいた。50代社員は10年史で「ボーナスは徐々に上がり、ローン返済でぜいたくはできないが生活は安定。これも石橋社長の言う『普通の会社』の一つかなと最近思う」と振り返った。

 当時、産業再生機構幹部として旧カネボウの事業整理にかかわった冨山和彦氏は「赤字の繊維から撤退すべきことは明らかなのに、『祖業をやめられない』という空気が社内を支配し、合理的な意思決定ができなかった」と指摘する。

 構造転換には捨てる経営も必要だが、多くの企業はできない。「引き算の意思決定を先送りして事業の数ばかり増えてしまうのは、東芝も同じ。組織の新陳代謝は足し算と引き算の両合わせであることに自覚的にならないといけない」

 クラシエはさらなる改革に着手した。共通の課題解決に全社で取り組むプロジェクトで、第1弾は「商談の前倒し」だ。新商品の発売に向け、取引先との商談を1カ月前倒しする。実現にはサンプル品や宣伝の用意も伴うため、商品企画から生産、営業など各部署の一体化が欠かせない。石橋社長は「動きが早くなった。変わり続けないといけない」と話す。(村井七緒子)

感想
日本電産社長 永守重信氏
「病は気からと言うが、企業もおかしくなるのは社員の心や経営者の心情からだ。まず心を治さないと会社はよくならない。企業再建で感じるのは社員の心が病んでいることだ。社員の心が病むのは経営者に問題があるからだ。経営者に問題があると、社員の士気はどんどん落ち、品質やサービスの質が低下する。経営者への不満と不安の繰り返しで業績はさらに落ちて行く。

経営者の考え方が変わったから、幹部の考え方が変わったのでしょう。
幹部の考え方が変わったから、社員の考え方が変わったのでしょう。
経営者、幹部、社員の考え方が変わったから、会社が変わったのでしょう。
そして、トップの考え方が変わったから、会社が変わったのでしょう。

安倍首相は、秘密保護法、集団自衛権、共謀罪、そして憲法9条変更と、日本が防衛以外に戦争ができる国にすることが、一番の優先順位のように思います。
そして、森友学園や加計学園のように私的なことも優先なのでしょう。
佐川元近畿財務局理財局長(国税局長官に栄転)のように自分を支援する人は出世させ、自分に反対する人は左遷させておられるようです。
裁判官で国を敗訴や不利な判決をした裁判官を左遷させているのではないかと言われています。
何か、知らない内に、戦前のような状況になりつつあるように思ってしまいます。
麻生副総理が「ヒトラーのように、知らない内にワイマール憲法を変えればよい」と失言?(直ぐに取り消し)されたのは、本音であり、着実に実践しているのではないでしょうか?





「ヒトラー、動機正しくても駄目」=麻生氏が再び問題発言 "また本音がポロリ”

2017-08-30 12:11:28 | 社会
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170829-00000141-jij-pol 時事通 8/29(火)

 麻生太郎副総理兼財務相は29日、自らが率いる自民党麻生派の研修会で行った講演で、「(政治は)結果が大事だ。何百万人殺したヒトラーは、やっぱりいくら動機が正しくても駄目だ」と述べた。

 ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺の「動機は正しい」と擁護したとも受け取れる発言で、野党などから批判が上がりそうだ。

 麻生氏の発言は、所属議員に政治家の心構えを説く中で出た。ヒトラーへの言及に続き、「国民に確たる結果を残して初めて名政治家だったと言われる。人がいいだけでやれるような職業じゃない」と語った。

 麻生氏は2013年に講演で「ドイツのワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気が付かなかった。あの手口に学んだらどうかね」と発言して批判を浴び、撤回している。 


https://www.jiji.com/jc/d4?p=gaf928-jlp14955878&d=d4_int
「ナチスの手口に学べば」

 麻生太郎副総理兼財務・金融相は2013年8月1日、憲法改正論議に関連し、ナチス政権の手法を肯定したとも取れる自身の発言について、「誤解を招く結果となったので、ナチス政権を例示としてあげたことは撤回したい」とのコメントを発表した。内外に批判が広がったことを受け、早期にこの問題での幕引きを図りたい考えとみられる。

 財務相が問題の発言をしたのは7月29日。東京都内のホテルでの講演で、「ドイツのワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気が付かなかった。あの手口に学んだらどうかね」と述べた。憲法議は静かな環境で進めるべきだとの認識を強調したものとみられるが、ナチス政権の手法を肯定したとも取れる発言だった。

 これに対し、米国の反ユダヤ活動監視団体や中国外務省の副報道局長が、発言を非難する声明を相次いで発表するなど国際的に波紋が広がった。国内では、野党などから批判の声が出ていた。(2013年08月01日) 【時事通信社】

感想
失言が多い人と思われているかもしれませんが、失言ではなく、「つい、本音がでてしまう」方なのだと思います。

「ヒトラーの動機が正しい」
ヒトラーの動機とは、いったい何を麻生副総理は思っておられるのでしょう。
動機が間違っていたからこそ、多くの死者をだしたのではないでしょうか?

「(政治は)結果が大事だ。何百万人殺したヒトラーは、やっぱりいくら動機が正しくても駄目だ」と述べた。
第二次世界大戦では300万人の日本人が亡くなったと言われています。
戦争を始めた判断は、「動機が正しかった」と仮にしても、麻生副総理は「駄目だ」と思われているのでしょうか?
きっと、ご自分の言葉の重みが分かっておられないのかもしれません。

多くの政治家が発言した言葉を取り消されていますが、その多くは「考え方」がおかしいからで、それがポロっと出てしまうようです。

<追加>
麻生副総理は、発言を取り消されました。
言葉は一度口から出ると取り消すことができません。
政治家はよく取り消してそれで終わりにされていますが。
取り消しではなく、”謝罪”ではないでしょうか?


https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170830-00000025-asahi-pol 8/30(水)
麻生氏、ヒトラー巡る発言を撤回 「誤解招き遺憾」


 麻生太郎副総理兼財務相は30日、派閥の研修会の講演で「ヒトラーは、いくら動機が正しくてもダメ」と発言したことについて、「ヒトラーを例示としてあげたことは不適切であり撤回したい」とのコメントを出した。

 麻生氏は「私の発言が、私の真意と異なり誤解を招いたことは遺憾」とした上で、「政治家にとって結果を出すことがすべてであることを強調する趣旨で、悪(あ)しき政治家の例としてヒトラーをあげた」と釈明。「私がヒトラーについて、極めて否定的にとらえていることは、発言の全体から明らかであり、ヒトラーは動機においても誤っていたことも明らかである」としている。

 麻生氏は29日に横浜市で開いた研修会で、「少なくとも(政治家になる)動機は問わない。結果が大事だ。何百万人も殺しちゃったヒトラーは、いくら動機が正しくてもダメなんだ」と述べていた。朝日新聞社

ソ連将校のレイプ、満州での飢餓 澤地久枝「すべてを話しましょう」

2017-08-29 09:35:18 | 社会
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44659【特別企画】 現代ビジネス編集部

「軍国少女」だった過去を初めて明かした澤地氏

 戦争は、私が少女であることを許さなかった
幼いころから戦争が終わるまで、私は満州にいました。そのころ常に考えていたのは、「もっと戦争のために、自分ができることはないのか」ということ。〈欲しがりません勝つまでは〉をたたきこまれた軍国少女は、「どんなにひもじくても、食事のときは子供茶碗一膳しか食べない」という決まりを自発的に守っていました。
そのうえに配給制がはじまり、子どもたちはどんどん栄養不足になる。弟は脳脊髄膜炎になり、私も妹も猩紅熱(しょうこうねつ)にかかり、生死の境をさまよいました。全身の皮膚がずるむけになってね。痛くって痛くって……。

栄養失調で死ぬ人を何人も見ましたね。特に、満州から日本に引き揚げるまでの難民生活の中では、いくつ子どもの死体を見たか、わかりません。お墓をつくる余裕もないから、枯れ木みたいになった死体を裏山の穴に捨てるのです。
そんな環境で生きるなかで、私の生理は止まりました。戦争は、一人の少女が少女であることさえ許さなかったのです。

1930年生まれ、『妻たちの二・二六事件』『昭和史のおんな』などの著書のあるノンフィクション作家の澤地久枝氏(84歳)が、満州での戦中体験をつづった『14歳〈フォーティーン〉満州開拓村からの帰還』(集英社新書)を上梓した。困窮を極めた戦中の生活について、そしてソ連兵に犯されそうになったことをはじめとする壮絶な体験がつづられている。

「戦争」と「昭和」をテーマに執筆を続け、平和運動にもかかわってきた澤地氏だが、これまで自身の戦争体験について明かしたことはなかった。「恥ずかしくて、戦争中の体験は隠して生きてきた」という澤地氏が、なぜ今になって過去を語り始めたのか。

私は14歳の時に敗戦を迎えましたが、それまでは一点の疑いもなく日本の勝利を信じていた「軍国少女」でした。そのことが恥ずかしくて、いままでずっと戦争中の体験は隠して生きてきました。
いま、そのことを強く悔やんでいます。

私は日本がもう一度戦争を引き起こす、あるいは戦争に巻き込まれるのではないかという危機感を感じています。なぜ平和を愛したこの国が、再び危うい方向に向かおうとしているのか。それを考えた時に、私たちの世代が抽象的な言葉、たとえば「戦争はつらかった」「苦しかった」というような言葉でしか、戦争を語ってこなかったからではないかと思ったのです。

抽象的な言葉では、もう若い世代には伝わらない。だから、私たちはなるべく具体的に細やかに、戦争体験を語っていかなければならないのです。たとえそれが、つらい記憶を掘り起こす苦しい作業であっても――。

GHQに捕まるという恐怖
私たちは、戦争体験を語らなかったのではありません。「語れなかった」のです。
いまの人たちには想像もつかないでしょうけど、戦後まもなくの日本には『戦争中のことは語ってはいけない』という空気が漂っていたのです。当時は本当に『戦争中の話を軽々しくすると、GHQに捕まって、沖縄で捕虜として働かされる』というウワサが流れていましたから。恐怖に心を支配されて、誰も多くを語ろうとしなかったのです。

ひとつ、鮮明に覚えていることがあります。戦争が終わった後、私は東京の女学校に入学したのですが、授業中に、小石の入った綺麗な箱が回ってきました。先生に隠すようにひっそりと後ろの子が回してきたので、小声で『なに、これ?』と尋ねると『これ、広島の石なのよ』と答えるのです。原爆投下後の広島で誰かが拾ったガレキだ、と。
それを聞いて、私の内には言葉にならない不思議な感情が湧いてきた。おそらく他のみんなも同じ気持ちだったと思います。ところが休み時間になっても、誰もそのガレキのことには触れない。戦争のこと、特に広島のことを話すと、GHQに連行されると本当に思っていたから。
それぐらい占領軍は怖かった。その恐怖が染みついているから、この国では戦争の記憶がうまく語り継がれてこなかったのではないかと思うのです。

しかし語り継がなかった結果、今日のような状況をつくってしまった。私の身内に、14歳になる子がいます。彼は戦争について何も知らない。戦争とはどういうものかを彼に伝えるためには、私が14歳のころの話をするしかないと思いました。あの苦しかった日々と、私が軍国少女だったという恥ずかしい過去。それをいま、できるだけ具体的に書いておかなければならない、と。この本は、いま14歳を生きている「彼ら」に向けて書いたのです。

神風なんか吹かなかった
満州にいたころ、母は日本が勝つということに懐疑的でしたが、そんな母のことを私は「非国民」と思っていました。学校で弁論大会が行われた時、私が決めたテーマは「敵の野望を撃て」、でした。「敵」とは誰なのか。アメリカ人もイギリス人も見たことなんかないのに。それでも新聞を読み込んで、「敵」のやった残忍な行為を拾い出そうとしました。戦況は日々苦しくなり、学校ではサイパン島での日本軍の玉砕が知らされましたが、しかし神風が吹くものだと信じていた。
ところが、そんなものは吹かなかった。8月15日、父親から「戦争は終わったよ」と告げられ、私の「国」は消えた。それはもう、あっさりと。そしてその直後、ソ連兵が満州に侵攻してくるのです。
……私はこの本の中で、ソ連兵にレイプされそうになった話を書いています。いままで誰にも話さず、今日まで胸の奥底に隠しておいたことです。

「この一家を皆殺しにする!」
終戦直後のある日のこと、二人のソ連の将校が家に押し入ってくると、私にサーベルを突きつけたのです。必死で抵抗し、一時は将校たちを追い払いましたが、しばらくするとまた戻ってきた。私は物置に隠れたのですが、彼らは力づくでその扉を開けようとする。「もう助からない」と思いました。その男たちを必死に制止したのは、私の母でした。

澤地久枝・著『14歳<フォーティーン>』(集英社新書)
母の命がけの抵抗によって、今度こそ男たちは去った。しかし、その去り際に「今夜、この一家を皆殺しにする!」と吐き捨てたというのです。皆殺しの宣告。私はその夜、便所に行って吐きました。あまりの恐怖に、体がおかしくなったんです。

このことについては、母親ともひと言も話したことはありません。母も触れないようにしていましたし、私も極力思い出さないようにしていました。
それから四半世紀近くたった72年の冬、私は旅行でモスクワを訪れたのですが、空港でソ連兵の姿を見つけたとき、私の体が凍り付き、動けなくなったのです。寒さからではありません。あの日の恐怖心が、よみがえってきたからです。
いくら押し殺そうとしても、戦争の記憶は消えません。いま、私の心にあるのは、あのような時代をもう一度作り出してはならない、という願いです。だからこそ、残りの人生をかけて、自分の体験をつづらなければ、語っていかなければ、と思っています。遅すぎるかもしれない。しかし、まだ間に合うはずだと信じています。 

澤地久枝 ノンフィクション作家。1930年東京生まれ。49年中央公論社に入社。63年、「婦人公論」編集部次長を最後に退社。86年、菊池寛賞、08年朝日賞を受賞

感想
戦争体験のない私は、戦争体験の人の話に耳を傾け、”戦争が人を鬼”にしてしまう、自分がそうなってしまうかもしれないことを自覚して、決して戦争を解決の手段としてはいけないとの思いを強くする必要があると思います。
平和時であれば、レイプで逮捕されることが、戦争中は許されてしまいます。
平和時であれば、人を殺せば殺人罪になりますが、戦争中だとそれが当たり前です。

「戦争と検閲 -石川達三を読み直す-」 河原理子著 ”歴史から学ぶ”
戦争になると、情報までも国家が検閲するようになります。
”秘密保護法”で国の情報が国民に知らされなくなりました。
森友学園問題では書類が廃棄されました。
加計学園問題でも、一部情報が出て問題の一端がわかってきました。
先ずは、国民が知ることだと思うのですが。



「無意識の構造」河合隼雄著 ”無意識を理解し自己を知る”

2017-08-28 10:20:48 | 本の紹介
・人間誰しもコンプレックスをもっているが、その中核になんらかの外傷体験をもっていると思われることが多い。

・フロイトは、女性のヒステリー患者を治療しているときに、彼女たちがいずれも、性に関係する外傷体験を語るので、性の衝動ということが重要であると感じはじめた。

・ショーペンハウエル
 「夢においては、だれも自分自身のシェークスピアである」
 夢は劇と同じような構成をもち、次のような四段階に分けられる
1)場面の提示
2)発展
3)クライマックス
4)結末

・グレートマザーこそは、死と再生の密儀が行われる母胎なのである。ユングの高弟の一人ノイマンは、「グレートマザー」という大著の中で、女性の神秘が、初潮、出産、授乳を通じて体験されることを明らかにしている。

・著者は女性の患者さんに会うとき、初潮のときの体験についいて尋ねることがよくある。誰にも教えて貰っていなくて驚いてしまった人、そのことを告げたときの母親のいまわしい日を忘れがたいとする人、あるいは、家族で赤飯を炊いて祝ってもらった人。それらのエピソードは、彼女が、そして彼女を取りまく人たちが、いかに彼女の母性のあらわれを受けとめようとしたかを如実に示していて、実に多くのことを集約的に告げてくれるものである。

・ペルソナ;古典劇において役者が用いた仮面のことである。
人間がこの世に生きていくためには、外界と調和してゆくための、その人の役割にふさわしい在り方を身につけていなくてはならない。いわば、人間は外界に向けて見せるべき自分の仮面を必要とするわけであり、それが、ユングの言うペルソナなのである。
ところが、ペルソナがあまりにも硬化してくると、その人は人間としての味を失って非個性的な存在になってくる。

・心の全体性;自我と影、ペルソナとアニマ・アニムスなど、人間の心のなかに対極性が存在し、それらのあいだに相補的な関係が存在していることが明らかである。ユングはこのような人間の心のなかの相補性に注目してきた。

・自己はユングの定義に従うかぎり、あくまで無意識内に存在していて、意識化することの不可能なものである。人間の自我(意識)はただ、自己(無意識)のはたらきを意識化することができるだけである。

・人生の前半はその人にふさわしいペルソナを形成するため、社会的地位や財産などをつくるために、エネルギーが消費される。しかし、人生の後半は、むしろ、内面への旅が要請される。言うなれば、生きることだけでなく、死ぬことも含めた人生の全体的な意味を見いださねばならない。

・ユングの大半の努力は、西洋において確立された自我を、いかにして自己へと結ぼつけるか、ということであったと言っても過言ではない。

・日本人としての個性化という点で、自ら考え自ら生きることが重要であると思われる。自ら体験し、自ら考えることこそ、ユングの言う個性化に他ならないと思うからである。

感想
全体を紹介するには内容の多い本でした。
知らないことの箇所を抜き出してみました。
ですので、河合先生が言いたいことの紹介には程遠いと思います。
無意識が自我に大きく影響しているかと思います。



「地震と独身」酒井順子著 ”自分の人生、どう生きるか”

2017-08-27 15:26:26 | 本の紹介
家族(配偶者や子ども)がいると真っ先に家族のことを心配したが、独身だから先ずは自分のことで、次は周りの人のことで、独身の人は被災地で周りの人の支援をする側に回った人も多かった。
被災地で一時的なボランティアをしていた人の中で、独身の人は被災地に留まり、ボランティアを継続する人も多かった。
多くの人が被災したことで、結婚したいと思った人も独身者の中には多かった。

独身者がどのように思い、行動し、どうしていったかを多くの独身者にインタビューして、その記録書のような本でした。

「災害ユートピア」の本の中に、アメリカの政治学者デボラ・ストーンの言葉が引用。
「人に何かを与えたり、人を助けたりすることは、彼らに、彼ら自身より大きい何かの一部であるという感覚を与える。他人を助けると、自分は必要とされている価値のある人間で、この世での時間を有効に使っていると感じさせる。他人を助けることは、生きる目的を与えてくれる」

感想
今をどうするか。
それを大切にして行動されている人が多かったです。
自分を振り返ると、今だけでなく、その先は大丈夫かを考えて選択していたように思います。
そのために、未知なことにチャレンジを控えていたように思います。
若い時に、老後まで考えていたようです。

どちらにせよ、周りの目を気にせずに、自分の生きる意味を見つけてそれを実践することなのでしょう。
意味は人生からの問いかけの中に見いだすものなのでしょう。
そして人生の問いかけは一人ひとり違っているということです。