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西岸良平さんをご存知でしょうか?映画『ALWAYS 三丁目の夕日』は、ビックコミック連載の「三丁目の夕日」を原作としています。 西岸良平さんの漫画は好きで、20年前までは全ての漫画本を持っていました。人生を考えさせられたり、人の温もりを感じさせる作品でした。幾つか記憶しているストーリーを紹介します。たくさん思い出しましたが、頭に浮かんだ順で4つ紹介します。ヴィクトル・フランクル(「夜と霧」の著者)が、人には選択する自由があると述べています。 双子の姉妹の人生; 一卵性の双子の姉妹がいました。顔から体型からそっくりで区別がつかないほど似ていました。性格は違っていて、姉はキャリアーウーマンとして外でバリバリ仕事をしていました。妹は家で手伝いや仕立ての仕事を引き受けて内で仕事をしていました。 姉が駅で待ち合わせしている時によく出会う、気になる男性がいました。相手の男性も自分のことをよく見ているようで、時々視線が合っていました。自分から声をかける勇気はなく、声をかけて欲しいと思いながら日だけが過ぎて行きました。 ある時、妹がお姉さんに紹介したい彼がいると言ってきて妹の彼に会いました。な、なんと彼は、姉が駅でよく見かけていた好きな男性でした。彼は、「お姉さんそっくりなんだね」と言って驚いていました。妹は彼に駅で声をかけられたと姉に伝えました。姉は心の中で「妹はほとんど電車を使うことがないので、彼は私に声をかけるつもりで、電車をたまたま利用したそっくりな妹に声をかけたんだ」と思わずにはいられませんでした。 姉はお酒に浸り、私が彼と結婚できたのに・・・。その思いからなかなか抜け出せません。仕事も以前のようにバリバリできなくなってしまいました。 風景が変わり、姉はその後、少し年上の男性と結婚し、仕事を辞めました。その家に妹が尋ねて来ます。妹は今保険の外交員をして子供を育てています。彼は妹と結婚して数年後、不幸にも交通事故で亡くなってしまいました。外でバリバリ働こうと思った姉は専業主婦で、専業主婦を願っていた妹が外で働いています。妹の背中を見送りながら姉は人生を振り返っています。 高校の同級生の人生; A君とB君は高校3年生の時、同じクラスでした。学校の成績はA君の方がB君よりかなりできていました。 A君は第一希望の大学に落ちてM大学に入りました。A君はおもしろくありません。こんなM大学なんか自分にはふさわしくないとの思いから、何もする気持ちになれません。こんなバカばかりのM大学なんかと思いながら芝生に寝転がっていたら、B君が通りかかりました。そしてA君に「こんな良いM大学に入れて幸せだよ。大学生活は楽しいし」と言葉を投げかけて来ました。そして同じサークル仲間と一緒に去って行きました。 A君は希望している出版社に入れずに、小さなW出版社に入りました。こんなW出版社で何ができるんだ。俺だったらもっと大きな出版社で活躍できるのにとの思いでいっぱいでした。どういうわけか同じ会社/職場になったB君が、A君に「良いW出版社に入れて良かったです。夢のようです。仕事は面白いし」と言い、バリバリと仕事に取り組みました。 A君はちょっとしたミスを上司に指摘されいさかいになり、「こんなしょうもないW出版社辞めてやる」と啖呵をきり、W出版社を辞めました。 風景が変わり、A君はW出版社を辞めて転職しましたが、そこでも上手く行かず転職を繰り返しホームレスになりました。そして今、A君はホームレス仲間と雪が降る中、お酒を飲んでいます。A君の前をB君が子供の手を繋ぎながら家族3人で通り過ぎました。それをぼんやりとA君は眺めています。そして、ぽつりと「何が悪かったんだろう?俺の方ができたのに」とつぶやきます。 常磐線三河島の事故; 1960年の常磐線三河島の事故(160名の死者)で大好きな彼女を失いました。朝も通勤途中で待ち合わせし、朝一緒にお茶して、始業時間の遅かった彼は彼女を会社近くまで見送ってから、自分の会社に行くほどでした。彼女が亡くなったのは信じられませんでした。彼は、何故彼女が、何故彼女が・・・。繰り返しますが彼女は戻って来ません。しばらく自暴自棄の生活が続きました。 風景が変わり、彼は遅い結婚をして、子供に恵まれました。妻と子供が出かける彼に手を振って見送っています。彼は空の遠くの雲を見ながらふと彼女のことを思い出します。 遠雷; 大好きな彼が事故で亡くなりました。結婚も約束していました。彼女は彼がいない人生なんか考えられませんでした。悲しくて苦しくて・・・。雷が鳴っている中、もう生きて行くのができないと思った彼女は踏切で列車に飛び込もうとします。そこを踏切の保安係の人が気が付いて、寸前のところで彼女を掴まえました。保安係りの人は、彼女にとつとつと諭します。しかし、彼女には亡くなった彼以外には考えられません。彼のいない人生なんか考えられませんでした。 風景が変わり、雷が遠くで鳴っています。彼女は結婚して子供がいます。雷の音を聞きながら、昔のことに思いを馳せています。 1966年味噌製造会社の専務一家4人が殺され放火された事件。袴田巌さんはボクサーでその会社の従業員でした。 20日間240時間にわたる、夏の暑さのところで行われた常軌を逸した取り調べが行われたそうです。少しでも休ませて欲しいとの思いから自白させられました。裁判では一貫して無罪を訴えましたが、無理やり自白させられてもそれを取り消すのが難しかったようです。 1)犯行時着ていた衣類5点のDNA分析が一致しない。 2)1年後味噌樽の底から後から見つかった衣類5点に疑義がある。 犯行時の衣類がパジャマからその5点に警察側が主張を切り替えた。しかし、実際味噌樽に漬けて見ると衣類は味噌に染まってまったく血液付着などが区別つかない状態であったのに、証拠品は味噌に浸かっていない状態。ズボンは履けなかったのに、裁判所は当時は履けたと。 熊本典道さん(1968年静岡地裁で一審で死刑の判決文を書いた裁判官) 無罪の心証を持ちながら先輩判事に押し切られた。合議制だったので仕方がなかったのですが、どうしても後悔の念から半年後裁判官を辞職し、弁護士になり袴田巌さんの支援に回ったそうです。熊本さんはご自分の良心を大切にされ勇気を持って行動されたのだと思います。こういう方がいる組織はまだ救いがあります。 当時取り調べをした刑事が、「証拠が乏しい事件で自白しかなかった。再審が決まったことなので。ただ、今でも犯人だと思っている」と顔を隠してインタビューに応えていました。本当にそう思うのでしたら、顔を出して堂々と発言して欲しいと思いました。 数年前にTVの特集で袴田事件を放映していて、最初のDNA分析をした検査員が、弁護側がそのDNA分析がおかしいと指摘しても、「DNA分析は正しい」と言い切っていたのを思い出しました。当時のDNA分析の限界は科学者ならわかっていることなのに組織の考えで、最初のDNA分析は不備があったと言えなかったのでしょうか。組織に反してまで言う良心、勇気がなかったた。言うと閑職に追い立てられる、あるは辞めさせられると恐れる気持ちがあったのでしょうか。 静岡地裁の裁判長が踏み込んで判断されました。 1)捜査機関によって捏造された疑い 2)耐え難いほどの精神両面に苦役を与えた。これ以上拘束するこはできない。 47年7か月の刑務所。死刑が確定してから34年間、いつ刑が執行されるかの毎日の不安を想像するだけで身震いがします。よく生きていてくださったと思います。亡くなっているとうやむやにされていました。 48年前の日本でまだ、このような取り調べが行われいたことが恐ろしく不安です。 先日、ネットから強迫したということで、まったく関係ない人が何人か自白させられていました。後日、実はその人のパソコンを使って遠隔操作していたことがわかり警察が謝罪しました。犯人でない人を無理やり犯人にしているのは今も続いている事実のようです。 袴田事件がもっと恐ろしいことは、捏造をしていたと疑わざるを得ない点です。捏造は犯罪です。捏造をした人は罪に問われないのでしょうか?48年の人生を奪い取ったこと、死の不安に陥れた34年間。捏造に関わった人が、もし自分だったら、自分の家族だったら、大切な人が捏造で犯人にされたらどう思われるのでしょうか。仕方がないと思われるのでしょうか。きっと怒り心頭に達すると思います。それをやったことになります。 ナチの強制収容所で職員として人をガス室に送り込む作業をした人がいました。その責任者は戦後ずっと居場所を探され裁判にかけられました。日本において捏造を指示した責任者の追及はなされないのでしょうか。刑事としては時効が過ぎています。せめて民事できちんと真実を明確にすることが、これからの冤罪を防ぐ一歩なのだと思います。 心理学の実験で、回答者が間違うと電気ショックを与える教師役の任務を与える実験がありました。人はどこまで命令に従うかの実験でした。教師役以外は全てさくらです。電気ショックは回答者に与えられませんが、回答者は与えられたように演技します。電気ショックの大きさに比例して演技を変えました。多くの教師役は回答者が悲鳴を上げても指示に従って電気ショックを与え続けたそうです。この実験はドイツ人だからナチスの強制収容所で上の指示に従って人をガス室に送りこむことを証明するために計画されました。ドイツで行う前に米国で行ったら、米国人も上の指示に従うことがわかり、ドイツで実験することは中止されました。 熊本典道さんのように、過ちを自覚され行動を変える。良心に従った行動をする勇気を人は取れないのでしょうか。それが取れる社会、企業、団体にならないと、いつまでもこのような冤罪や会社の不正はなくならないのではないかと思います。 先ず一歩、自分がそのことができるようにしたいと思います。 ある方が、「肝臓がんで、それが肺にも転移して、1~2年は癌との闘いだった。その中で、最近の治療方法で高濃度のビタミンC点滴療法が癌に対して効果を示していることが米国で証明されいる。それを受けた。また、ラジオ波焼灼療法も受けた。それらもあり肝臓の癌は消え、肺の左側の癌も消え、今は右の肺の数ミリだけになっている」と話されていました。さっそくネットで調べてみました。 http://www.iv-therapy.jp/outline/detail/01.htmlより引用 高濃度ビタミンC点滴療法によるガン療法 「2005年にアメリカ国立健康研究所、国立ガン研究所、国立食品医薬品局の科学者達は共同で「高濃度のビタミンCはガン細胞を殺す」という論文をアメリカ科学アカデミー紀要に発表しました。続いて、2006年3月には高濃度ビタミンC点滴療法で長期生存を続けている3人のガン患者さんについてカナダ医師会雑誌に論文が発表されました。さらに2007年には「高濃度ビタミンC点滴療法がガン患者の痛み、倦怠感、食欲低下、不眠などの諸症状を改善し、QOL (生活の質)を改善する」と韓国医師会雑誌に論文が発表されています。そして、現在はアメリカやカナダの多くの医師らが高濃度ビタミンC点滴療法をガン患者に行うようになり、この治療を受ける患者の数は急増しています。」 ネットで調べると、その治療をおこなっている施設がたくさんでてきました。まだ日本では認可されていませんので、医者の裁量の下で行われています。保険適用されていませんので、15,000~50,000円の自己負担と出ていました。 ビタミンCが癌に効果があるということは、ポーリング博士が提唱されましたが、その後否定される論文もあり、何となくビタミンCは良さそうとのイメージがあり、飲んで害になることはないので摂ったりしています。特に風邪を引いたときなどは。 最初は15gから始めるそうです。そして、25g、50gと増量するとありました。 同じサイトからの引用; ビタミンCの抗ガン作用の機序について「ヒトの膵臓ガン(Mia PaCa-2)、悪性黒色種( SK-MEL-28)、大腸ガン(SW-620)、骨肉腫(U-2-OS)の培養細胞はビタミンC濃度が400 mg/dLに達すると死んでしまいます。ビタミンCが高濃度になるとガン細胞の周囲で鉄などの微量な金属とフェントン反応を起こして過酸化水素を生成します。正常細胞はカタラーゼという酵素が過酸化水素を中和するので影響をまったく受ません。一方、ガン細胞の多くはこのカタラーゼが欠乏しているために過酸化水素を中和できずにダメージを受けて破壊されてしまいます。すなわち、ビタミンCは高濃度になると栄養素ではなく抗ガン剤として働くのです。 一方、ビタミンCはミトコンドリアの機能を正常化し、免疫システムを刺激(インターフェロンの産生、マクロファージの食作用の亢進、NK細胞数の増加と遊走能の亢進)、P53遺伝子を安定化、P53遺伝子の障害を抑制し、化学療法あるいは高濃度IVCによるpro-oxidant効果によって引き起こされる突然変異を予防します。 すなわち、ビタミンCはガンの化学療法剤でありながら免疫力を高めるという、これまでにない理想の化学療法剤であるわけです。」 http://www.kanto-ctr-hsp.com/patient/pickup/syokakinaika_kanzogan.html ラジオ波焼灼療法~消化器内科での肝臓がんの治療
・針のみを使うのでお腹を切りません 日本では治療は医者に全てを任すとの考えがあります。治療や薬について尋ねると気分を害する先生もいらっしゃいます。インフォームドコンセント(病気や治療方法の説明と承諾)が普通に行われているようになり、患者も自分の病気に付いて知る、治療方法について知ることが重要になって来たのではないかと思います。医者によっては、治療方法が異なる場合があり、それぞれの治療方法を信じて行われていますから、違う治療をその先生に求めるのは難しいと思います。自分が求める治療を行っている先生の下で治療を受けることなのだと思います。 25年ほど前に米国でヘルスケアを少し学んだことがあります。当時、ニューヨーク州では、病院/医者毎に治療成果(予後)を公表していました。もちろんそのためには、同じ病名でも重い患者さんと軽い患者さんの重病度の点数化があった上でのことでしたが。当時驚いたのは、進んだ病院では、医者によって予後に差が出ると、予後の悪い医者には、その医者の治療方法から推奨する方法に変えるように指導されていました。医者の治療を科学して、よい方法にしているのが新鮮な驚きでした。 アンパンマンのやなせたかしさんの奥さんが癌になり、医者からもう数か月と宣告されたそうです。やなせたかしさんは藁にもすがる思いで、丸山ワクチンを医者にお願いしました。医者からは水みたいなもので効果はないですよと言われました。それでも、妻を少しでも長生きさせたいとの思いでお願いしました。奥さんはその後5年ほどいのちを延ばし日常生活を送れたそうです。効果があったのか、気持ちから免疫力が高まったのかはわかりませんが。 いろいろな治療方法、抗がん剤があります。それが効く人と効かない人もあるようです。それが自分の持っている遺伝子タイプや癌のタイプによっても異なるそうです。一人ひとり遺伝子が違います。一卵性双生児は遺伝子が同じでも、性格/学習能力が変わります。違っているから良さがあり、違うことが大切なのだと思います。 余談; 双子姉妹 の三倉茉菜/佳奈の茉菜さんがテレビに出られていました。「佳奈が結婚していて、私が結婚していないのはよっぽど性格が悪いのだと思われる」と言われていました。そこには結婚している”良い”、結婚していない”良くない”の根強い考えがあるからなのでしょう。それこそ、間違った考え方だと思います。一人ひとり違っていてよい。結婚するしないもその違いの一つだと思います。 小さな小さな花の種だって 大きな大きな花になる 本「花の冠」より一部引用 1989年819gの未熟児で生まれ、重度脳性麻痺、未熟児網膜症による弱視、13歳で気管切開により失声し、筆談で「言葉のコミュニケーション」を始めた。 双子の姉の葵さんは生まれた時に亡くなりました。 この詩集は、仙台市に住む桂さんが復興支援チャリティコンサートのオリジナル曲のために書いたものです。けれども、「がんばろう」、「地震」、「津波」の言葉もでてきません。ゆっくりでいい、生きていていい、そう思える、優しい歌です。 「嬉しいなという度に、私の言葉は花になる」 13歳で筆談を特訓するまで、言葉で思いを伝えることができなかったのです。 周期性嘔吐という病気とも付き合いながら詩を創られています。 東日本大震災が起きた時、私は仙台の自宅で母と一緒でした。その時にいたヘルパーさんは自分の家族のところに戻り、父は市役所で働いていたので職場に泊まり、母は私と障害のある弟のそばを離れることができません。そんな状況では、給水車や配給食糧の買い出しの列に並べませんでした。幸い自家用車の充電用コンセントで、私のたんの吸引器は動かすことができました。そんな状況が七日くらい続き、いよいよ食料が底をついたころ、私はブログで「助けて」とSOSを出しました。すると、そのとたん、近所に住む人や仲間、友人たちが、たった数時間で助けに来てくれました。その後も、全国の知り合いから、宅配便などで救援物質が届き、本当に感謝しました。それらのつながりや思いやりの笑顔でできた詩が「花の冠」です。 下記のサイトに大越 桂さんのことが紹介されています。 http://miyakatsu.ti-da.net/e3433232.html http://www.niyoniyo.net/vol27/hitolibrary/katsura.htm 「花の冠」 大越桂作 嬉しいなという度に 私の言葉は花になる だから あったらいいなの種をまこう 小さな小さな種だって 君と一緒に育てれば 大きな大きな花になる 楽しいなという度に 私の言葉は花になる だから だったらいいなの種をまこう 小さな小さな種だって 君と一緒に育てれば やさしい香りの花になる 花をつなげたかんむりを あなたにそっとのせましょう 今は泣いてるあなたでも 笑顔の花になるように
「海の石」 大越桂作 私のことは私が決める 私のことは自分で決める 私は人間 物ではない 物のように見えても人間です どんなに反応が見えにくくても人間です 動けなくても人間です 人間の心は悲しいのです 伝わらないのが悲しいのです 心がはりさけそうに 悲しいのです 私の心を見てください 私は生きている人間です どんなに重い障害でも 心はあるのです 思いを伝える手段がほしい 自分の心を伝えたいのです 「人生は続く」 大越 桂作 この日を境に変わるもの この日を境に変わらないもの ひとりの中に蓄えた 大切なものは 3年の月日に育てられたに違いない この日を境に思い出すもの この日を境に決意するもの なくしたものの中にも 輝き出すいのちがある ときだけが見せるいのちがある 少しずつ進めよう そうして人生を続けよう そうして人生を育てよう
「いのちの色」 大越 桂作 今日のあなたが背負う色に わたしの色を 一筆加えていいですか 少し疲れた水色に ほんのわずかに赤い色を そこから広がるピンク色が あなたの頬を染めるまで 少しずつ ゆっくりと 思わぬ色が生まれたときに 一緒に驚いてみませんか 思わぬ形になったときに 一緒になぞってみませんか あなたとわたしの作る色は 今を生きるいのちのあかし あなたの色に わたしの色を かわりばんこに 今日だけうまれる一度だけの色
「いのりの始まり」 大越 桂作 いのりの始まりは心 心の行き先は思い 思いの行き先は頭 頭の行き先は知恵 知恵の行き先は行動 行動の行き先はつながり つながりの行き先は心 心の行き先はいのり こうして地球はまわっている いのりが地球をまわしている だから私たちは生きている あなたと一緒に生きている 「小さなこと」 大越 桂作 昨夜の夜はよく眠れた 今朝は背中が痛くない みんなにとってはあたりまえ 今日は2ミリリットル注入が増えた(胃の中に直接栄養を注入すること) 吐かなかった みんなにとっては小さなこと 今日は入浴できた 髪を洗った いいにおいだ みんなにとっては毎日のこと 私にとっては大きな喜び 小さなことを 喜べる私でいたいなあ
神様は一人ひとりに違った使命を与えているという考え方があります。 その使命を達成するためには、大きなハードルを乗り越えないと果たせないものもあります。 大越 桂さんは神様からのとても大切なそして難しい使命を一生懸命取り組んでおられるように感じました。
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