神戸市中央区相生町に「兵庫県里程元標」があります。
当地は、元町商店街6丁目の西口前に位置する“きらら広場”の一角に位置しています。
里程元標(りていげんぴょう)とは、明治時代初期の里程調査のために定められた道路元標です。
道路元標は、道路の起終点を示す標識です。
「兵庫県里程元標 神戸市相生橋西詰」
明治6年(1873年)12月20日、明治政府は太政官達第413号により各府県ごと里程元標を設け陸地の道程(みちのり)の調査を命じます。
東京・日本橋、京都・三条橋の中央を国内諸街道の起程とし、大阪府と各県は府県庁所在地の交通枢要地に木標を建てて管内諸街道の起程とするものとされました。
道路元標としての役割を持つものの、元来が里程標であるため里程元標の位置から主要地点までの距離が尺貫法における里・町・間の単位で示されていました。
「明治43年(1910年)2月」
日本の道路元標が国によって定められたのは里程調査のための明治時代初期のもの、大正時代の旧・道路法施行令公布の時のものと二つの時期にわたって道路に設置されたものがあります。
正確には大正時代に設けられたものが『道路元標』と呼ばれるもので明治時代に設けられたものは『里程元標』(りていげんぴょう)と呼び、大正期の道路元標の前身となるものです。
「御影標柱へ貳里五丁九間三分」等々
「明石標柱へ四里三拾丁拾三間」等々
「里程元標について」
兵庫県里程元標は、元相生橋の西詰に位置していました。
昭和6年10月、国鉄高架線の完成により相生橋の撤去と共に取に取り除かれ保存
昭和35年5月、往時を偲ぶ縁(よすが)として、当地に移転復活
花崗岩製の石碑には、元標より各所への距離が記載されています。
人々に距離や場所を知らせる物として設置されていた歴史的な石碑を知る事ができました。
旅人には欠かせない標識だったでしょうね。
ありがとうございました。
★あ(^-^) り(-^ ) が( ) と( ^-) う\(^0^)/★
当地は、元町商店街6丁目の西口前に位置する“きらら広場”の一角に位置しています。
里程元標(りていげんぴょう)とは、明治時代初期の里程調査のために定められた道路元標です。
道路元標は、道路の起終点を示す標識です。
「兵庫県里程元標 神戸市相生橋西詰」
明治6年(1873年)12月20日、明治政府は太政官達第413号により各府県ごと里程元標を設け陸地の道程(みちのり)の調査を命じます。
東京・日本橋、京都・三条橋の中央を国内諸街道の起程とし、大阪府と各県は府県庁所在地の交通枢要地に木標を建てて管内諸街道の起程とするものとされました。
道路元標としての役割を持つものの、元来が里程標であるため里程元標の位置から主要地点までの距離が尺貫法における里・町・間の単位で示されていました。
「明治43年(1910年)2月」
日本の道路元標が国によって定められたのは里程調査のための明治時代初期のもの、大正時代の旧・道路法施行令公布の時のものと二つの時期にわたって道路に設置されたものがあります。
正確には大正時代に設けられたものが『道路元標』と呼ばれるもので明治時代に設けられたものは『里程元標』(りていげんぴょう)と呼び、大正期の道路元標の前身となるものです。
「御影標柱へ貳里五丁九間三分」等々
「明石標柱へ四里三拾丁拾三間」等々
「里程元標について」
兵庫県里程元標は、元相生橋の西詰に位置していました。
昭和6年10月、国鉄高架線の完成により相生橋の撤去と共に取に取り除かれ保存
昭和35年5月、往時を偲ぶ縁(よすが)として、当地に移転復活
花崗岩製の石碑には、元標より各所への距離が記載されています。
人々に距離や場所を知らせる物として設置されていた歴史的な石碑を知る事ができました。
旅人には欠かせない標識だったでしょうね。
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