早梅に 空路を乗せり ジョウビタキ
梅士 Baishi
これまで、野鳥を間近に見ることはあまりなかった。
珍しいところで、雷鳥、雉、ヒヨドリ、メジロという
ところだった。
ジョウビタキを知ったのは、最近のことである。
博多の梅は今を盛りに咲き誇っているが、山中の梅は
まだつぼみを少し色づかせている程度だった。
その山里のしだれ梅にオスのジョウビタキを見た。
接近しても逃げる様子はない。
それほど珍しい鳥ではないらしいのだが、珍しい姿で
ある。
マフラーをきりっと締めた飛行機乗りのようである。
空を飛ぶ生命体である。
素晴らしい。
さて今朝は陰暦正月七日、七草である。
七草・・・、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホ
トケノザ、スズナ(蕪)、スズシロ(大根)。
蕪と大根以外は分からない。
それに、街中には七草が生えていないのではないか。
野菜が高い折柄、野草味噌汁に親しみたいものだが・・・。
【 道徳教育こそは学校教育の柱である 】
近江聖人と言われた中江藤樹の霊言を一読したが、改
めて日本の精神教育の伝統とその高さに小満足する。
武士道というが、忠君愛国だけの猪武者なのではない。
神秘性をも秘めた深い道徳心と人生観が根底にある。
「天知る、地知る、子知る、我知る」という、後漢時
代楊震の故事、四知の潔白こそは道徳の心得である。
中国に道徳思想はあっても、文化にはならなかったで
あろう。
中国人と言えば、残忍、卑劣かつ野蛮である。
賄賂行政の国であり、監視がなければ公務員までが強
盗まで働く国柄であり、平気で嘘をついて責任を認めな
い卑劣がしみ込んだ民族である。
信頼関係ではなく、強者に平身低頭し、弱者に傲慢な
力関係で蠢く卑劣な民族である。
しかし、日本の道徳心も怪しくなってきた。
中国ほどあさましくはないが、かつての日本の道徳教
育の伝統は失われて久しい。
戦後の荒廃を未だに引きずっている。
道徳教育こそは、学校教育の本体である。
道徳教育こそは教育の幹であり、その流れとして、知
育、体育があり、技能教育がある。
知育、体育、技能教育は道徳教育の枝葉である。
義務教育で道徳の基礎が養われるべきなのである。
その上に、大学教育や専門技能教育が成り立つ。
小中学校の教育が公務員教職員によって破壊され、権
威を失墜してからは義務教育の体をなさなくなった。
日教組による小学校の保健体育ではセックスの技能教
育を得意げにやっている始末である。
そのあり様を見せられて唖然としたことがある。
こうした状況が専門学校や大学にしわ寄せされて大き
な教育障害になっているのである。
学生だけではない。
学校教職員でさえも、モラルを欠いている。
モラルは個人の問題で、マネジメントの問題ではない
そうである。
あいさつしない、掃除をしない、嘘をついてごまかす、
陰口をたたき、讒言もいとわない、裏工作や狡猾が実力
だと勘違いをし、悪知恵は働いても教養がない・・・。
見透かされていても、うまくいったと思い込んでいる
あさましさである。
かつて、道徳教育を実施しようと試みたことがあった
が、すぐに破たんした。
教職員が道徳教育を知らないし、テキストを作っても
授業ができなかったのである。
いいこと言っているかもしれないが、現実的ではない
というのだ。
国難の時にあって、国難を語れないでは教育ではない
とも思う。
中国ほど卑劣な国民ではないにせよ、それに近づいて
いるという危機感はぬぐえない。
教育の建て直しのために、どのように動くべきか・・・。
日本陽明学こそは維新革命の伏流水であったことを思
えば、五戒の教えを旗印に、もうひと踏ん張りしなけれ
ばなるまい。
心ある経済人よ、道徳教育維新の志士となれ!
学校任せにできない、人材教育の公的な責任があるは
ずだ。
教育の現場に入って、道徳教育を行ってほしいと思う。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・ 梅士党