紅梅に 翠midori のめじろの 枝揺れて
梅士 Baishi
梅の花に遊ぶめじろは一段と美しい翠色である。
古くから日本人が愛した風景である。
理系の人たちも、ときに文学の世界に遊ぶとよい。
手探りの法則では探れないやさしい感性の世界がある。
さて、満開の梅の季節、暦の上でもすっかり春である。
春というと、少し暖かな風が吹いて様々な花が咲きほ
ころぶ三月のイメージがある。
しかし、新鮮な春には梅が咲き、雪が降り、冷たい春
風が指先を凍らせるが、厳寒の冬ではない。
日本の季節はどうであろうか。
今は安倍ノミクスというパフォーマンスで明るい兆し
が見えているが、毅然としてマスコミや公務員左翼とい
う獅子身中の虫を下しながら敢行できるかはこれからの
ことである。
日常政治は妥協点をさぐることであろうが、革命期に
あっては断固たる強硬姿勢が欠かせない。
経済政策にしても、チョウニチ新聞系が上向き始めた
日本経済を今のうちに叩き潰そうと言論攻勢をかけてい
る。
フジマキだかトリマキだが知らないが、アベノミクス
政策を机上の空論、ハイパーインフレを引き起こす危険
な方向だと、日銀白川節のカラオケ版を出版している。
本を読まない自我流の奴がなぜ本を出すのかとも思う。
チョウニチ新聞も落ちたものだ。
【 人生と死について 】
この世の人生のゴールは死である。
死ぬことが無であるならば、無いことのために存在し
ているという自己矛盾に陥る。
すなわち、死というゴールも在りつづけるための節目
に過ぎない。
死後の存在形式として、霊界が在るというのは合理的
なことである。
死ぬことが自殺の自由を意味するならば、ゴールを勝
手に動かすことであり、不正である。
生きることを志さないとは、エスケープであり、恥で
もある。
死ぬことが、生きる意味の喪失であるならば、責任放
棄ないし責任喪失である。
「もういつ死んでもよか」というのは、人生修行をさ
ぼる怠慢以外のなにものでもない。
それは自己中心の傲慢というべきである。
人生修行に、これでよいというところはないからであ
る。
死ぬことが不幸であるならば、不幸になるために生き
ていることになる。
それは、人生の自己矛盾である。
死とは幸福でなければならない。
幸福なゴールとは、人々に感謝される人生であり、こ
こまでは頑張ってこれたという達成感であろう。
それでぽっくり死ねたら、それに勝る幸福な死に方は
無い。
逆に不幸な死とは、他人や世の中に禍をもたらした人
生の終着である。
人間は一人では生きられない。
人間関係として生きている。
他人あっての自分である。
だからこそ、他人のために生きることが人生である。
以上のことは、道理として導かれることである。
そうした道理に知性と力を与えるのが宗教である。
幸福の科学に学ぶ者は幸いである。
奇跡の時代を生きる者だからである。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・ 梅士党