節分の 鬼はいぬかと 口入れし
梅士 Baishi
今朝の気温は3℃ほど、結構冷えている。
明日は節分、あさってが立春。
神社では節分万端、福やら鬼やらが飾られている。
節分の鬼は愛嬌のある陽気な鬼だが、家に巣くう穢れた心、穢れた
言葉は容易には駆除できない。
それが、貧乏神の正体であろう。
福にとって、貧乏神は鬼である。
もう一つ追い出したのものが、元気を失わせる死に神であろう。
幸不幸といっても、他人あってのものである。
即ち、人間関係なのだ。
暴力的な支配、嫉妬、憎しみ、軽蔑、自己嫌悪は不幸を招く。
与える愛の思いこそは幸福を招く。
結局、自己中心が不幸の台風の目なのである。
この自己中心を戒めるものが、信仰であろう。
神は愛なりである。
愛は自己から発せられるものではなく、神から発せられる。
愛とは、神我一如にその本質があるのではないか。
神の霊流を引くことが、信仰である。
故に、信仰とは愛であるということにもなる。
テロ組織『イスラム国』が、日本人の人質二人を殺害した。
日本を敵であると宣言した。
彼らは、日本の敵となった。
彼らが国を名乗るなら、これは戦争布告である。
しかし、軍事力を持って『イスラム国』を殲滅してよいということにはな
らない。
彼らの信仰やプライドが、イラクの滅亡という屈辱によって切羽詰まっ
たということがある。
その原因を遡れば、英仏による植民地支配と石油を巡る利権争いに
行き着くのではないか。
戦後の、パレスチナの乗っ取りや石油利権の植民地支配がなければ、
中東が戦争に飲み込まれることはなかったのではないか。
その石油に依存しているという点では、日本も加害者の側に与してい
るともいえる。
中東の貧困は、石油利権の独占という植民地支配に由来していると
いうべきなのではないのか。
そういう批判を欧米に対して突きつけなければ、「人道支援」にはなら
ないのではないのか。
テロの刃を日本に向けていることについては、単純なる憎しみではな
く、どうして助けてくれないのかという苛立ちがあるはずである。
日本の事なかれ主義は、もはや事なかれとは行かなくなっているの
である。
フセインも日本とは縁の深い魂であった。
今回の悲劇も、結局は日本の無責任、事なかれ主義に由来するの
である。
日本が、毅然としてあるべき正義を示さなければ、イスラムにテロ以
外の活路を与えなければ、中東の悲劇は最悪の事態に陥るだろう。
欧米もまた、大きなカルマと責任を背負っている。
被害者面してその罪の責任転嫁をするような、卑劣なフランスのよう
になってはなるまい。
欧米との言論戦を避けてはなるまい。
その上でのイスラム支援でなければなるまい。
名誉ある活路を開くことだ。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・ 梅士党