ネジバナや 未だ地底を 捩じらむか
中村 梅士 Baishi
もうそろそろネジバナを見る季節である。
今年は遅い。
身近にみることのできる山野草であるが、ランの一種であ
る。
タイにゆくと、王族の花のように華やかにランの花が咲き
乱れている。
それに比べると、日本種のランは繊細で神秘的である。
山中でたまたまランの花を発見したときは感動だった。
その山も宅地開発されたのでもう見ることもないだろう。
その点、ネジバナはランであることを感じさせない逞しさ
があって大好きな夏の花である。
例年なら、蝉が鳴き始めてもよいころだが、雨が続いてい
るせいか、遅れそうである。
華南が80年ぶりの大水害だというなら、九州も多少の雨
は辛抱したい。
さて、今日も雨の一日を部屋に籠って授業準備に専念した
が、じっとしているだけで鼻水が垂れてくる。
花粉症なのか、眼も痒くて仕方がない。
眼がしょぼついて、鼻水まで垂れるのだから、もう青年で
はないということなのだろう。
青色でなければ秋色なんだろうから、黄年にしようか。
羽振りがよければ黄金色になる年齢である。
今日は大学教養ということで日本の伝統文化を復習した。
日本の文化は美しくかつ、高級である。
よほど生まれが良くなければ身につかない美と作法がある。
あこがれるが、おいそれとは身につかない。
茶道くらいは習うべきであった。
ちょっと、鎮心流に拘り過ぎたかもしれない。
歌舞伎は博多座でやっているが、あまり気が進まない。
世の成功者たちが集まる所という違和感があるからだ。
江戸庶民の楽しみというわけにもゆかない時代なのだ。
かといって、おひねりを飛ばす芝居小屋にも足が向かない。
料亭にも滅多にゆけない。
京都の老舗料亭くらいこなせるようになると思っていたの
に、その意味では人生勝負に失敗したということだ。
金の問題ではなく、人間関係の上流には達しなかったとい
うことである。
まあしかし、禅坊主か仙人かという傾向性からすれば、悔
しいという気持ちはほとんどない。
なにしろ、雲水の如しである。
雲にはUFOが隠れ、水は三峡ダムを破壊する。
まあ、よいのではないか。
自分の価値観の中では、次の都知事は七海ひろこと決まっ
ている。
博多に投票箱はないから一票を投じることはできないが、
どうみても、他の選択肢は明確にあり得ない。
ところが、街頭活動もコロナを理由にやっていない緑の狸さ
んが当選することはほぼ確実なのだそうである。
なんで?
なんで七海ひろこを報道しない。
報道責任を果たさないわけ?
マスコミが七海ひろこを封殺することがなぜ許されるの?
民主主義の論理からしても、憲法論理からしても暴力とい
うべきであろう。
もっとも、日本政府は暴力的というより悪魔のナンチャイ
ナ政治を黙認しているわけだから、民主主義も人権も関係な
いという立場で一貫しているわけではあるが、あきらかに不
公平であり、法の精神に反しており、神を冒涜する政治状況
というべきであろう。
もはや、神意を問いたいと思う。
地球神が降臨している東京で、これ以上小悪魔どもの支配
を許してよいという道理はなかろう。
悪魔・ヒロシを追放したと同様の論理で、既成権力を追放
するべきなのではないか。
それがエクソシズムの意味でもあろう。
それとも、まだ生贄が足りないというのだろうか。
そのことを、エル・カンターレさまに問いたいと思う。
人間の罪を、悪魔の仕業を一旦遂行させることが、神のお
きてなのだろうか。
神秘の法に対する違和感である。
日本国独立宣言・神聖九州やまとの国
New Asia Happiness Party