ようように 一段落し 春休み
中村 梅士 Baishi
エイプリルフールに一応の仕事納めをしたが、在宅仕事が
残っていた。
心残りをようように仕上げて、これで心置きなく春休みで
ある。
これでやっと新年度を迎えることができる。
季節は、山藤やクサフジ、マツバウンランなどの淡い紫色
の季節である。
亡父や老母と正月、五月連休、盆休みと年三回は通った雲
仙の宿が懐かしい。
クサフジの曲がり、マツバウンランの草原、そしてグラン
ドゴルフを楽しんだ思い出がある。
老母はコロナ禍に遠慮して旅にも外食にさえも出たがらな
いが、まあ、そのうちどこか行きたいというだろう。
今年は最悪の天災の年になりそうだが、なにかしら楽しみ
を工夫したいものだ。
かくして、やっとジャズタイムにたどり着いた。
定番のキース・ジャレットの「サンベアコンサート」シリ
ーズを楽しんでいる。
飲み物は麦焼酎・百助のロックをティファニーのワイング
ラスで喉越している。
職場では人事異動があるようだ。
辞める人、昇格する人、転勤になる人、そんな中でとりあ
えず同じ職場で20年以上勤めているのは気まぐれな自分に
しては上出来だ。
もしかしたら怠慢なのだろうか。
しかし、かなりスリリングなことを実験してきたと思う。
思えば、気難しい人間だったかもしれない。
それでもやってこれたのは、組織とは一定の距離をとって
いたからだろう。
金の問題ではなく、自由との折り合いの問題である。
まあ、あきらめないで、こつこつと英語に慣れるとしよう。
海外で仕事ができますように。
できれば、新・大東亜共栄圏で!
日教組をはじめとして、売国奴左翼は武道教育に反対する。
武道は殺人の技術だなどと冒涜する。
武道を殺人技術だというのは無教養にもほどがあるという
悪口憎言のレベルである。
勝敗を競う競技スポーツはみんな平和主義に反する野蛮な
文化というのであろう。
それを言うなら、共産主義ほど野蛮な暴力主義はあるまい。
太平洋戦争で敗北した日本はアメリカの植民地的支配に服
さざるを得なかった。
日本的な精神文化をことごとく破壊するという占領政策が
徹底された。
日本を共産主義で弱体化しようという発想は、中共のバイ
オ兵器仕様と共通する発想であろう。
思想兵器・共産主義は、今でも教育界と公務員世界に色濃
く残っている。
競争社会の外で食って行けるからである。
武道教育の禁止は植民地支配には不可欠の戦術である。
憲法9条がその根拠となっている。
武道が人殺しを目的とする技術とは・・・。
反日左翼教員のみなさん、平和主義のチャイナに帰りなさ
いよ。
もう一つ、武道教育を信仰によって忌避すると言って、最
高裁で勝訴したのが「エホバの証人」である。
輸血拒否で自分の子供を死に至らせた事件でも知られる邪
教である。
宗教には正邪がある。
これを判断する基準は、良識に照らして調和と発展に矛盾
しないかというテストがある。
常識は偏見に満ちているが、良識というべき価値観は教養
と良心を基礎にしている点で、意外と信頼できる世俗的基準
である。
「エホバの証人」とは何度が対決してきたし、友人を奪わ
れた苦い経験もある。
親友と言えども、信仰の過ちは許さないというのが、自分
の冷徹さなのかもしれない。
嘘は許さないというのが、妥協できない信条でもある。
信頼関係なくして人間関係は成り立たないからである。
「エホバ」教は邪教である。
そもそも、アメリカの行商人が誰のお告げでか、自分がキ
リストの再臨だと錯覚して勝手に聖書を改竄して立宗したこ
とに始まる。
その布教のコンセプトは人類滅亡の終末思想を中核に、信
者でなければ神の国には入れないという脅迫的な教義を立て
た。
聖書研究に熱心なのは、偽聖書を「聖書」として普及する
ためだったのだ。
しかし、終末の予言は外れた。
教祖は恥をかいて死んだ。
しかし、後継者が予言を修正してもう少し時間稼ぎができ
るように謀略を施した。
そして、布教を促進するために、布教ノルマを達成しなけ
れば魂は滅びると脅迫する教義を追加したのである。
つまり、エホバ教とは脅迫的宗教なのである。
彼らのよって立つ教義そのものが破綻しているのである。
こうした邪教の信仰が武道教育の正統性よりも優先すると
したのが最高裁判決だった。
いや~、それなら、司法試験に最終合格しなかった自分の
方が偉いでしょうよ。
信仰の自由と言えども、邪教を信じる自由を尊重するいわ
れはないというのが良識ですから。
幸福の科学は、人間存在の永遠性を説いている。
肉体は滅びても人間の本体である霊存在は永遠に生き続け、
何度も転生輪廻を繰り返し魂の学習を続けているのだという。
これほどの希望の原理はあるまい。
霊的世界を知ることによって、広大無辺で接点のなかった
宇宙が身近に認識されるようにもなった。
子どもの頃の空虚な思いが救われた。
遠い星の世界がきらめいて見えても無縁の世界ではないか。
死んだら何もかも無になるというなら、何のために生きて
いるのだろう。
そんな虚しさを小学生のころから感じていたのである。
しかし、それは杞憂に過ぎなかった。
それが、幸福の科学によって確信され、生命感が蘇ったの
である。
選択の自由とは言っても、勉強しない自由、信仰を否定
する自由、教育を受けない自由が尊重されるいわれはない。
人権を拒否する自由を認めるのが憲法学者である。
なんだ、それ。
もっと思考する自由に目覚めるべきである。
邪教を信仰する自由は人権ではなく、罪である。
トマス・モアの「ユートピア」が言うとおりである。
いい加減、奴隷的安住をやめては如何か。
奴隷長の総理大臣殿!
日本国独立宣言・神聖九州やまとの国
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