やられたり モスキートーの 痒さかな
中村 梅士 Baishi
昨日の夜は手足を蚊に刺された痒さで目が覚めた。
暗がりで蚊取り線香をたき、ムヒを探して塗り込んだ。
う~ん、なんとも憎たらしい奴め!
今日は仕事に没頭した。
それでも終わらなかった。
ふと気づくと8時近くになっていた。
あ~~~~、我那覇さんの講演会を忘れていた~~~~。
折角、アクロスで開催されるというので出かけるつもりだ
ったのだ。
なんてことだろう!
総裁の講演会にさえ行かないのだから、腰が重たいのだ。
ジャーナリズムに対する違和感もあるのかもしれない。
しかし、我那覇さんの現地取材には多くの気づきがあった。
英語でインタヴューができるというのも啓蒙的だった。
だから、本音トークを聴きたかったのだ。
残念!
今日は多忙の中、食事をしながら映画を一本観た。
『ガーンジー島の読書会の秘密』である。
何かと打算的な都会の暮らしの中にいた女性ライターが、
あるきっかけからドイツ軍に占領された試練の中で助け合っ
てきた島民の「読書会」に興味を持って取材に行くのである。
そこで、ある悲劇的ミステリーを追う中で、打算を超えた
人間関係に心動かされてゆくというストーリーである。
打算がなければ経済生活は成り立ちがたいが、何が優先さ
れるべきかという「殉じる」という精神がなければ、人間の
本分が成り立たない。
人生とは死にざまである。
スポーツ界では「誤審」問題が議論され、ビデオ判定制度
の導入が進んでいる。
何を以て「誤審」と言うのかということが問題なのである。
ビデオで見る限り、審判の判断は「事実」とは違うという
ことを問題にするわけである。
しかし、誰がどういう権限で事実と違うということを判定
するのか。
客観的事実を基準とするというなら、裁判沙汰になるだろう。
それが司法制度がある理由でもある。
司法の場で争われるということになれば、競技の円滑な進
行が妨げられ、結審後に結果が糺されたとしても白けた話で
ある。
だからこそ、審判の判断を尊重することがフェアプレイの
ルールとされているのである。
すなわち、「誤審」などと安易に言うべきではないのだ。
他方、司法自体も、客観的事実を判断基準とする限りにお
いて、紛争の迅速円滑な収拾を妨げているといえる。
裁判では証拠調べをして、裁判官の自由心証主義によって
「事実」を確定することになっている。
しかし、客観的事実を厳密に言いすぎるから、裁判が10
年も20年もかかってしまうのだ。
裁判そのものが紛争を深刻化させているのである。
裁判官は、いわば事後的審判である。
その事実認定は、自由心証主義による。
事実認定の根拠に必ず物的証拠が必要ということになると、
証拠との距離が遠い当事者には圧倒的に不利になる。
司法は自らがトラブルメーカーであることを反省すべきで
ある。
立証責任の転換も柔軟に指揮するべきである。
最後は自由心証主義こそは審判たる裁判官の権限として当
事者がこれを尊重するべきことを司法上のフェアプレイとし
て要求するべきなのである。
訴訟法の再整備が必要である。
刑事裁判においても、疑わしきは被告人の利益にと言う考
え方を見直すべき余地がある。
冤罪は避けなければならないが、疑わしさのレベルに応じ
て保護観察なりの防犯処置が必要ではないか。
それが嫌なら、被疑者において、素行を改めるなり、潔白
の証拠を提出するなりさせるべきである。
学校内での体罰事件、いじめ事件、家庭内での児童虐待事
件、DV事件は凶悪犯である。
ところが、証拠を確保することが難しい犯罪でもある。
ここでも、立証責任を検察に全部課するのではなく、立証
責任の転換を訴訟指揮で指示できるようにするとよい。
人権問題は、被疑者だけではなく、被害者にもあるからだ。
常習犯の類型でもあるので、防犯上の配慮も必要である。
現代社会は厳しい競争社会であり、アンフェアな勝利至上
主義が横行している。
スポーツでは、審判や観客の目にさらされ、ファウルプレ
イはその場でペナルティーを食らうことになっている。
しかし、一般社会には見て見ぬふりをする「審判」が多す
ぎる。
だからと言って、AIによる監視社会システムはそれ自体
が支配装置であるから断固阻止しなければならないが、信仰
が希薄化した社会では自由を支えるべき責任が見失われてい
る分、監視制度は補強されなければならないのだ。
イエローカードとして、探偵による保護観察処分とかがあ
ってもよいのではないか。
防犯体制を刑事手続きとしても整えるべきである。
競争社会の中で、審判制度に類した制度が必要なのではな
いか。
迅速、円滑、これが司法の鉄則でもある。
そのために裁判官には訴訟指揮権がある。
訴訟遅延は裁判官の職務怠慢である。
アメリカの大統領選不正訴訟を却下するような裁判の拒否
も許されるべきではない。
人々が正しい信仰生活を旨としている社会であれば、警察
も、司法も最小限の労力で済むのである。
信頼関係と言う美徳を取り戻すには、正しい信仰が必要で
あることに気に付くべきである。
問題の原点は信仰忌避にあるのである。
日本国独立宣言・神聖九州やまとの国
New Asia Happiness Party