英国の 野に在るものか アザミ咲き
中村 梅士 Baishi
野にアザミが咲き始めている。
アザミには英国の騎士の雰囲気がある。
棘立つ葉は盾のようである。
だから、紫の花が凛として見える。
棘棘しいが、この季節のお気に入りの花である。
草花でも園芸種は好きではない。
人工的だからである。
野の草花を季節の花遍路に楽しむのが趣味である。
いわば「大衆」とは園芸種の花であり、洗練された貴族は
野草である。
と言っても、英国の貴族社会を好ましいとは思わない。
仕来たりとか差別意識とかが好きではない。
映画『タイタニック』でも、そういう貴族のいやらしい付
き合いが描かれていた。
かと言って、ジンを飲んだくれる工場労働者大衆を良しと
も思えない。
では、現代的な高貴さとはどこに行ったのだろうか。
命がけの仕事にこそ高貴さが宿るように思える。
香港の民主活動家は現代の貴族というべき高貴な生き方で
あると思う。
スポーツで言えば、英国貴族が好んだ狩猟や乗馬がある。
しかし、狩猟は殺生をするのでやりたくない。
昔、親戚の伯父は狩猟で死んだ。
乗馬はやってみたかった。
モンゴルで思い切り草原をかけてみたかった。
現代的貴族スポーツであるゴルフはやってみると面白いの
だが、接待や談合とは無縁の人生だったので親しまなかった。
動機においていかにも俗世間的で、憧れは感じない。
結局、貴族スポーツといっても、打算が働く限りにおいて
高貴ではなくなっている。
そうしてみると、高貴なるスポーツといえば、乗馬がある。
しかし、都市部の生活には馴染まない。
結局、現代でも高貴なスポーツといえば、武道と登山では
ないだろうか。
健康のためには水泳がよい。
だから、学校スポーツ教育としては、水泳、弓道を含む武
道と登山を取り入れるとよいと思う。
福岡にも聖火リレーが来るという。
連続したコースではなく、断片的な政治コースである。
何が「聖」なのだろうか。
中共が加担するオリンピックに聖火はふさわしくない。
聖という意味は神の属性である。
神を公共から駆逐した日本の公共事業として、聖火リレー
はタブーではないのか。
矛盾している。
実態に即して言うならば「征火」というべきであろう。
征服の炎である。
スポーツ履歴はその人の強さと品格を表す。
スポーツなくしてリーダーなしである。
だからこそ、スポーツの神聖を穢してはならない。
ドーピング常習国チャイナにオリンピック参加の資格はな
い。
日本はドーピングとは無縁と思われてきたが、最近そうで
もなくなったという。
神仏を公共から排除したことが、歯止めを失った原因では
ないのだろうか。
神国だった日本にとって、なんとも恥ずべきことである。
日本国独立宣言・神聖九州やまとの国
New Asia Happiness Party