五稜郭公園に限った話ではないのですが、函館市内の歴史関連スポットでは、その場所にゆかりの人物について紹介する、写真のような柱が設置されています。
まずは、先日も紹介した、五稜郭を設計した人物である「武田斐三郎(たけだあやさぶろう)」。
短いながらも、その人物の来歴や功績が記載されており、とても良い学習教材となっています。
幕末の箱館において、最後の箱館奉行を務めた「杉浦誠」という人物です。
榎本武揚や土方歳三と比べると、なかなか表立って紹介される機会の少ない人物ですが、そのような人物にもしっかりとスポットを当てているというのが素晴らしいことだと思います。
こちらは、箱館戦争勃発当時、旧幕府側の箱館奉行とは対極の、明治新政府の「箱館府知事」を務めていた「清水谷公考(しみずだにきんなる)」という人物です。
箱館戦争勃発当初、新政府側で旧幕府軍と対峙した部隊は、急造であったが故に、歴戦の旧幕府軍には到底かなうことはなく、府知事であった清水谷は、戦況不利と判断して、自ら側近達を連れて青森へ撤退しました。
旧幕府軍の降伏後には府知事として再任され、戦後処理に当たりましたが、開拓使の設置直後に箱館府が廃止となった際、その事情確認のため上京し、そのまま府知事を辞任しています。
旧幕府軍の「陸軍奉行並」という地位にあり、榎本武揚を総裁としていた「蝦夷共和国」の副総裁に任ぜられた「松平太郎」という人物。
オランダ留学を経験し、国際法を習得していた榎本武揚の「洋才」に対し、松平は「和魂」と言われ、厚い人望があったそうです。
松平太郎と一緒に写っている人物は、幕府の軍隊近代化援助のため、フランス軍事顧問団の一員として派遣された「ジュール・ブリュネ」という人物。
戊辰戦争に際し、中立的立場にあった本国フランスの命に反し、榎本武揚の旧幕府脱走軍と共に箱館に入り、軍事顧問として従軍していました。
清流であった「亀田川」から水を引いて作られた五稜郭のお堀の水を利用して、「函館氷」と呼ばれた天然氷を製造した「中川嘉兵衛」という人物。
箱館で「嘉兵衛」といえば、やはり「高田屋嘉兵衛」が有名ですが、もう一人「嘉兵衛」という人物が、函館の歴史に大きな足跡を残していたということになります。
横浜のイギリス公使館のコック見習いから身を起こし、日本で初めて牧場で牛を飼った人物で、ローマ字で知られる「ヘボン」や、かの「福沢諭吉」に勧められて、天然氷の製造に挑戦しました。
それまで天然氷というのは、国内では製造・商品化はされておらず、アメリカ東海岸のボストンから、6か月以上という長い時間を経て横浜へと輸入されていた医療用のものが主体でしたが、国内で初めて天然氷として製造された「函館氷」は、横浜まで船で運ばれ、東京、横浜、神戸などで、飲食に用いられて大変重宝されたそうです。
人物の解説柱は以上ですが、別な場所に、五稜郭に関して大きな足跡を残した人物を称える碑が設置されています。
「松川弁之助(まつかわべんのすけ)」という人物で、越後から蝦夷地に渡り、五稜郭の建設工事に携わりました。
建設工事に当たり、資材運搬のために自費で完成させた道路が「松川街道」と呼ばれ、現在も、「松川町」という地名となって函館市内に残っています。
文章だけの碑ですが、もし写真が残っていたら、ひょっとすると解説柱が建てられていたのではないかと、個人的には考えます。
こういう人物の功績も、しっかりと語り継がれていくといいなと思います。