西部地区にある、「真宗大谷派(東本願寺)函館別院」さんは、2028年12月まで修復工事中ですが、ガイドコースに入っているので、外観のみご案内しています。
で、これまで2回、こんな質問を受けました。
「(函館には)西本願寺はないのですか?」
はい、あります。
「浄土真宗本願寺派(西本願寺)函館別院」さんが。
江戸時代、松前藩においては、宗教政策により、現在の本願寺派は、寺院の建立や布教活動が長く禁止されてきた歴史がありました。
1857年(安政4年)、江戸幕府より本願寺派北海道開教の公許が出ると、陸奥國(現在の青森県)にあった「願乗寺(がんじょうじ)」というお寺の住職の次男であった「堀川乗経(じょうきょう)」が、本願寺第20代宗主「広如上人」の命を受けて「願乗寺休泊所」を創設し、1877年(明治10年)に明治政府の許可を得て、本願寺派にとって北海道内最初の別院となる「本願寺函館別院」と公称することになりました。
それが、現在に至るこちらのお寺のルーツとなっています。
現在のこの立派な本堂は、2013年(平成25年)3月に竣工しています。
親鸞上人の像。
先程触れた「堀川乗経」の顕彰碑があります。
どういう功績かと言うと、これは以前紹介しているのですが、1859年(安政6年)に完成し、1888年(明治21年)に転注されるまでの間、現在の函館市内を流れていた「願乗寺川(がんじょうじがわ)」という水路の開削を計画したというものです。
当時の函館は、現在の「金森赤レンガ倉庫」辺りよりも東側には人家が少なく、砂州の上にあって井戸水が確保しにくい環境でしたが、このことと、現在も流れている「亀田川」という川の当時の流路は大変氾濫が多かったことの2点から、治水と飲料水確保のために新しい水路が計画されました。
沿岸地域の飲料水確保を可能とし、箱館の街が東部へと発展する契機となったこの水路を、箱館奉行所では「新亀田川」と名付け、市民は、堀川乗経の功績を称えて「願乗寺川」と呼びましたが、やがて沿岸地域に人家が多くなるにつれて川の汚染が進むようになり、1870年代後半からはコレラが蔓延するようになって、願乗寺川がその汚染源とされてしまいました。
このことから、北海道庁は新たな川の開削を決定し、1888年、上の地図にある「新川」への転注完了後、願乗寺川は自然廃河となって埋め立てられ、飲料水確保という所期の目的を、翌年に開通する上水道へと引き継ぐ役割を果たしました。
そんな、今はなき川の歴史と、それに携わった人物の功績が、こうして現在も語り継がれています。