龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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スピノザ『エチカ』が読める、ということ。

2012年10月20日 14時23分05秒 | 大震災の中で
今、國分功一郎センセの「スピノザ入門」第三期講座の第一回について予習をしている。
いよいよ『エチカ』である。

これが驚くべきことに、なんと冒頭部が「読める」ようになっている。

まあそれはモチロン気のせいかもしれないし、あるいはまた私の持論である「50才過ぎ現象」の痴呆開始効果によって、余分な要素がしだいに失われつつあり、その結果、すべての要素に目移りしてしまう眼球運動に囚われることなく、凝視しようと希望する実体の像が、痴呆が進行する途中の瞬間に、(これまでの人生の精進に応じた)鮮明さで「今」立ち現れている、というだけのことかもしれない。

だが、これはそれにしても、スピノザ示すところの
「分かる人にはわかる」
現象でもあるのではないか、と、
ちょっと思ってみたくもなるような鮮明さ、で「読める」のだ。

何が分かったかって?

そりゃあ、分かる人には分かるのさ(笑)
といってはお終いですね。
つまりね、読めるようになった理由はたぶん、この演繹的に神から始めるという叙述へのこだわり、の気配を、國分センセの講座でかんじられるようになったからじゃないかな。

そしてなにより肝心なことは、それがテキスト外部の物語によってではなく、徹底したテキストの批評においてその教育がなされた(私=foxydogの上に!)という点だ。それは畠中尚志の前書きが読める、ということでもある。

だいたい以前はそれも読めなかった。

モチロン、21世紀から読む『エチカ』は、言葉の意味が分からないだけではなく、根本的に「ことば」「表現」に対する態度が違い過ぎて、素で読むと本当にがっかりするほどイライラすることがある。
でも、実有とか、実体とか、属性とか、様態とか、それが向かおうとしている方向が少しでも感じられると、急に霧が晴れてくる(ような気がするだけかも、というのはデフォルトとして)。

可能性条件の設定の身振りの気配を、脳みその裏の方で感じつつ読む、とでもいえばいいだろうか。

「幾何学的な証明」

とかいうことについてはサッパリ分からないままだけれど、単なる自動機械的な演繹の身振りが、ぐっと身近に感じられるようになった。

断っておかなければならないのは國分センセのコトバが、そのエチカの叙述の「読み」の瞬間に、そのテキスト自体と響きつつ誘うって感じなのであって、どこか別のところに説明の補助線があって、それが内容を説明している感じではない、という点。

さて、では7回目のレポートはまた後ほど、メディア日記に書きますね。




久しぶりの電車。

2012年10月20日 10時18分35秒 | 大震災の中で
久しぶりに電車を利用している。

もしかすると震災以後、初めて電車に乗ったのかも知れない。

考えてみるとこの一年半というもの、青森から京都まで、どこへ行くにもクルマだった。

もともとクルマ好きということもあるし、震災後は高速道路の料金が安いということもあり、かつまた一人で移動するということがなかったということもある。

一人旅だと電車の方が概ね安価だ。

今気がついたのだが、クルマを一人で運転するときは、コトバから離れることになる。瞬間的無人島ですね。

それに対して、対話の相手がいれば、クルマはさらに楽しくなるし、いざとなったら運転を代わってもらうこともできる。
あるいは、電車なら文庫本一冊あればコトバの中に埋もれながら居眠りもできるだろう。

クルマの一人旅はそれができない。
音楽を聞くか、運転それ自体を楽しむか。

どうも、震災前は外側に言葉のない瞬間=空間を、これほど畏れてはいなかったような気がする。

しかし、震災以後は、常に他者のコトバに触れていなければいられなくなった。

勿論、おしゃべり中毒活字フェチだから、震災以前だって言葉に触れていなければいられなかった。

いわゆる、ひとりで食堂に入って、本が手元にないときはお醤油の瓶のラベルでも読んでしまうってヤツです。

ただ、今までは、平面的な滑走というアクションの中で、表現を次々に横にズラしながら、擬似的な瞬間的無人島としてのクルマの中で、外界とは運転情報という限定されたインターフェースでだけつながり、頭の中でことばを消費し続けていればよかった。いや、ソウイウカタチデシカ言葉を「消費」する術を知らなかったのかもしれない。

今は、どこかで「裂け目」のしるしを探している。

探しているモノが、探しても届かないモノではなく、届くまで探すことになった、とでもいおうか。

いや、届かないんですがね、相変わらず(笑)。

一人ではなくなった、ということか。
それともひとりをようやく自覚した、ということか。


クルマを走らせている時間が足りないという現実的な多忙さ、もあるにはある。

クルマを運転し続けて、どこでもない瞬間をひとりでなぞることはなくなった。ゲームができなくなってしまったこととも関係があるのだろうか。
まあ、50才過ぎてオンラインゲームとかやってる残り時間はないんですが。

でも、これは残り時間の問題だけでもなさそうなのです。

どこでもない時空は、もはや、クルマを駆らなくてもそこにある。

そこを覗き込むのは、いつも「他者」と共にでなければなるまい。
そうでなければ、見る意味もない……

そういう感じ、でもある。

古典に関心を持つようになったのも故なしとしない。

一読しては意味の分からないような古典テキストを読むとむしろ安心する。

瞬間的なはやわかりをしなくても、もういいのだ。

とらいえ、全く読めなくては仕方がない。そういう意味で協同する人や先達は必要だ。

孤独が深まったのか、抜け出したのか分からないけれど、ちょっと面白くなってきたような気だけはしている。

相変わらずこうやって電車から車窓を見ながらメールを書いていると、またクルマに乗ってこの線路から外れたくなるんだけどね。

クルマは自分になれるけど、電車は自分じゃないから。

身体的「重心」の問題、でもあるかな。

この項は圧倒的に宿題。