「エチカ福島」の設立趣意書です。
http://kitsuneinu.jugem.jp/?eid=527
二回目にようやくまにあいました。
簡単に枠付けられないもの。
フラジャイルなもの。
分断されている状態におかれたもの。
誰かの定義によっては世界の半分しか手にできないような種類のもの。
そういうものと向き合いながらなお、互いに響き合うことのできる周波数帯を探すこと、について語るのは、結構むずかしこったりもします。
倫理=エチカを語るのにかぜ「アート」なのか?
と思われるかもしれません。
丹治先生とは内容について語っていませんから、私個人の思い込みになりますけれど、自己の中から何かを表現するというだけでは表現の半分にしかたどり着いていない、ということを私はかんがえています。
安全なのか/危険なのか
ということ一つとっても、単純に誰かが決めてくれる時代はもう過去のものです。
そのとき、人はどうやって人と出会い直せるのだろう?
そう考えていくと、プロジェクトとしてのアートは、例えば鄭周河氏が、南相馬の写真を撮りつづけつつ、しかしその写真を南相馬の人と共有し得るかどうかについて、「深い逡巡」があったと語るような、そんな場所に立っているのではないか、と思うのですね。
そしてそういうところがもしあるとしたなら、これは「エチカ」の見出される「多数性」が響く場所でもあるはずだ。
そんな風に考えるのです。
「身近なことはあきらめられない」
という國分先生の第一回セミナーの言葉とも響き合うんじゃないか?
そんな風にも思うのです。
ともあれ、よろしかったら趣意書など、ご覧いただければ幸いです。