龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

戦慄系トーク、森田真生×鈴木健のこと

2013年06月16日 23時54分30秒 | 大震災の中で
週末遊び倒してようやく帰着。
明日から仕事になるんだろうか……。
いろいろ考えるべきことも仕入れてきたから楽しまなくちゃ。
数学者森田真生氏のトークは面白かった。でも、佳境にはいる前に終わった印象がある。
後半『なめらかな社会とその敵』の筆者鈴木健とのトークセッションは、隔靴掻痒の感あり。
二人のいいところが出尽くさないうちに時間切れしちゃったかな。コーディネートが弱い印象。二人とも飛び切りの素材なだけに、いささかもったいない感じ。
しかし、それでも十分面白かった。

前半数学の歴史を語りながら、自立した体系として数学は存在するのではなく、人間という存在が見る風景として数学はあるんだってところが、私にとってはいわゆる一つの肝だった。
むしろ人間を含んだ生態系のような、というか、数に対する脳の質感(クオリア)が前提となっているというか。

数を直観することと、数を記録することと、数えることが違う(人間は3~4までしか直観できない、一対一の対応、カウントすること)、ピタゴラスから、外側をアクセスするんではなく、数学の中で数学に自己言及する形が始まったとか、そういう歴史の話もおもしろかったです。

数学を数式抜きで語るのはかなり限界があるだろうに、それは正直凄いと思いました。
時間が短く感じられましたから。

数学は離散的記号によってそれ自身に自己言及的にかかわるが、哲学は自然言語によって哲学的表現に言及して外部をやはり参照しない、という比較は面白かったです。

数学の記号は離散的。分けられていく。
哲学は自然言語だから、そうならない。

その辺りもう少し話を聞きたかったです。
もう少し整理して見なくちゃ。




「福島芸術計画」平田オリザと和合亮一(2013.06.15於:福島県立美術館)

2013年06月16日 13時46分57秒 | 大震災の中で
友人(「エチカ福島」の共同代表)がブログで、昨日福島市で行われた「東北芸術計画」というイベントにおける平田オリザと和合亮一のコメントと、それについての感想を書いてくれています。

ぜひ一読を。

考えるネコ、走るイヌ
http://plaza.rakuten.co.jp/gato814/diary/201306160001/

都会はいろいろあるねえ。

2013年06月16日 13時17分35秒 | 大震災の中で
昨日の午後、有楽町をうろうろしていたら、八戸復興祭的イベントを駅前でやっていた。
そこで聴こえてきたのが素敵なボーカル。
あとでチェックしたら
安藤佳子さん
http://s.ameblo.jp/yollips2461/entry-11553187197.html

でした。

通りすがりに有名ではない映画も観られるし、このあと映画の帰りにはガード下でサックスのストリートミュージシャンに聞き惚れてしまったし、今から数学者のトークショーにいく予定だし、都会は本当に街を歩いているだけでも面白いイベントがたくさんある。
それだけたくさんの人が自分を磨きつつ生活してるんだろうし、その傍に立ってその営みを応援したりその成果を享受したりもできる。

福島からつかのま逃げ出してくる意味もあるというものか。

さて。
点と点を結んで情報を繋ぎ、提示された「経験」を潜り抜けていく都会の営みはとても楽しい。
けれど、それは被災地の「被災」にばかりアイデンティファイしてもいられないのと同様、楽しんでいる自分という環境の「次」というか「以前」というか、はみ出す「余り」に横目で注意しておかないといかん、かったりもする。

その瞬間に出合う表現

に対する自分のリアクションを、自分だけで繋いでいってもしょうがない。

そこを収斂すちゃうつまらなさからどう動いていくか。
お前も歌えってことですかね?
いやいやまさか。

ただ、どんな「歌ならぬ歌」を歌うかは、考えるべきかもしれない。








「ドゥルーズの哲学原理」を受講する前に (1)「真理への欲望」(フーコー)のこと

2013年06月16日 11時49分00秒 | インポート
「ドゥルーズの哲学原理」を受講する前に
(1)「真理への欲望」(フーコー)のこと

國分功一郎「ドゥルーズの哲学原理」を受講する前に

國分功一郎先生は、昨年度朝日カルチャーセンターでスピノザの通年講座(12回)を実施しました。
今年は年4回、ドゥルーズについての講義。

その講義メモを今からまとめようとしているのだけれど、今回はその前に、個人的な話をちょっとだけ。

講座内容はすでに岩波書店の雑誌『思想』に連載されているし、6月19日には『ドゥルーズの哲学原理』として出版もされる。

わたしがここでいそいで細かく書く必要はない。

スピノザ講座の場合は、後半のエチカ論についてはまだ本が書かれていない先生自身の思考の前線のライヴだったから、たとえメモが不備でも、急いで書いておく意義が多少はあったけれど。


むしろ私個人としては、ドゥルーズにたどり着くまでの道筋をまとめておくことも必要かなと。

もしお暇でしたらしばらくお付き合いを願っておきます。


スピノザを集中的に読み始めたのは、2006年の10月からだ。

その頃私は、フーコーのコレージュ・ド・フランス講義と文庫のフーコーコレクションも読んでいる。
萱野稔人の『国家とは何か』を読んだのがその2005年。彼はフーコー研究者だから、そのあたりからもう一度哲学を読むことが習慣になり始めてきたのかもしれない。

年齢的には40歳代半ば。

文学からもう一度哲学へ、という自分の中での嗜好の変化を改めて自覚するのはもう少し後のことだが。

しかしそれにしても、アマゾンの履歴は、ほとんど「致命的」と呼べるほど決定的な情報だ。

今日検索してみて初めて実感した。
私自身が全く覚えていない「読書歴」を、ほぼ完全な形で時系列(月毎)で教えてくれるのだから。

これをみただけで、私と面識がない人でも、

「そうか、きみはそんな奴だったんだな」

と私の無意識の「系譜」を分かってしまうだろう。
まあ、一銭の得にもならないからこれで犯罪は構成しにくいだろうけれど、かなり決定的な情報であることは間違いない。

さて、フーコーは、大学の頃から断続的に触れてはいた。
そのなかでも、たしかコレージュ・ド・フランスの就任講義だった『言語表現の秩序』は、私の理解の範囲内でさえ(つまりは短かったってこと)衝撃だった。

いわゆる「真理への欲望」のはなしですね。

いってみれば「真理厨」だった私の頭の中のヒダヒダがひっくり返された瞬間だった。


蓮實重彦の文芸批評経由で、フーコーもデリダも読んでいたが、高校の倫理の授業では哲学といえば実存主義までだったから、基本、フーコーもーデリダもいくら読んだって意味が分からない。
もちろん、フロイトもマルクスも全く読めない。

当時流行していたポスト構造主義的なラインナップの中で唯一分からなくても読めたのがラカンであり、現象学ではメルロ・ポンティだった。
あとは昔からお気に入りだったヴィトゲンシュタインですかね。

今となってみると、
「立てられた問いと対象との距離感」
が短ければ、かたられようとする答えは分からなくても何とか付いていけるけれど、対象が何で、それに対する問いがどうなされているのかが両方とも分からないと、とにかく読めない、ということだったのだろうと思う。

無論、早分かりの解説本は読んでいたが、まだ時代も後期近代を生き始めたばかりだったから、自分の生きている今を十分には相対化できておらず、早分かりが早とちりを招く危険が大きかった。

(早分かりって、いちばん大きなフレームだから、正確性を問わなければ案外大切だと思う。これも今にして思えば、だけれど。ただ、渦中にいると早分かりがちっともわかりやすくなかったりしてね)

大学を出てもなお「真理厨」だった私にとっては、

例えばメルロポンティの「間主観性」とか、
あるいはラカンの謎めいた「主体」の虚構性=構成性の指摘だとか、
またヴィトゲンシュタインのように前期と後期で全く異なった世界像を提示して「意味」の零度みたいな場所を指し示しあるいはその世界像の輪郭をなぞり示そうとすることばの身振りとか

を(彼らがはたして私の中の稚拙な問いを問うているのかどうかは問題ではなく)、自分の「問い」を問うためのフィルターとして、彼らのテキストの指し示す「意味」を「使用」していたのだろう。

ただ、そのときうっすらと半ば無意識に感じていることがあったとすれば、頼まれもしないのに彼らが彼ら固有の問いを問うその欲望が、「真理への欲望」に還元しきらないものだとするならば、彼らのテキストはどこからどこへ向かっているのだろうか、という問いでもあったかもしれない。



政府、再除染しないという非公式の指示

2013年06月16日 09時55分59秒 | 大震災の中で


政府、再除染認めない方針に 自治体に非公式伝達

これも全く意外ではない。

しかし、今の国の施策レベルではどうにもならない現実を生きているということを、私たちはこの除染問題だけではなく、キチンと折り込んで生きていく必要があります。
除染を繰り返し徹底的にやる覚悟なんてないんだよね、行政は。
それはまず持って「予算を湯水のように使う」ことはできないという発想なのだろう。

でも、除染はお祓いじゃない。

線量が下がるまでやる。
そうでなければ住めない。
それは、あまりにも自明なことなのに、単なる事業=予算の執行として扱われてしまう。

チョット血が沸騰しそうな怒りが湧いてくる。
つまり、政治において科学的言説は、統計的な数字と予算の数字に還元されて輪郭を画定されていくのだね。

日本人はそんな覚悟もないのに除染とか言ってるんだ。
政府が決めた基準まで下がらないのに予算を執行しない、というのは、矛盾だよね。
まあ「非公式」だから、言い逃れはいくらでもできるのだろう。

小出しに後からズルズルしているうちに、民は諦めていく。

簡単にはコントロールできないほどの膨大な予算を必要とする事故=洞穴のような「深い闇」。

それとどう向き合い、どう付き合っていくのか。
長いスパンで覚悟と指針を問われているのは、行政だけではない。
まずもって私たち自身だ。

それでも私たちはこの「環境」に「適応」していくのだろうか。



ETV特集「基地を笑え~人気舞台でみる沖縄のホンネ」を観た

2013年06月16日 01時11分10秒 | 大震災の中で


ETV特集「基地を笑え~人気舞台でみる沖縄のホンネ」を観た。
5年前の番組だそうだけれど、軽い衝撃波を感じました。
小波津正光
という芸人さんに密着してその取材や舞台を撮ったものです。
そのお笑いはチョット苦く、チョット緩く、チョット切なくて、かなり楽しい。

さっき観た映画とはまったく関係ないのだけれど、私の中では響き合った。

自分が今向き合っていることと無縁ではない、という感じがある。
一つ一つの印象をどう繋げるか、時間が必要だけれど、小さい断片をつないでいかねばならない。
それをじっくりやらねば。
そう思った。