今日は「エチカ福島」のセミナー本番だというのに、夜中に本を読んでいる。
これが厄介なことにすこぶる面白いのだ。
そろそろ眠らないといけないのだが、遠足前にリュックの中のご馳走である「バナナ」に手をつけてしまった小学生のときの自分、のような心境で、なかなか途中でやめられない。
岩波の『思想』に連載中の時すでに読んだ部分を「読み返して」いるはずなのに、印象がだいぶちがう。
確かに漫画でも小説でも、連載時に細切れで読んだ時と単行本で一気読みした時とで印象が異なるのはよくあることだ。
だが、この本に関しては、単行本で読まれることによって初めて得られる、いわば
「テキストの持つドライブ感の本質」
のようなモノを感じるのだ。
何を大げさな、と言われるだろうか。
しかしたとえばドゥルーズ自身の言葉
「超越論的な探求の特徴は、ここでやめたいというところでやめるわけにはいかないというところにある」
國分氏によって繰り返し言及されるいわばドゥルーズ自身の思考のエンジンの鼓動のような言葉が、そのまま國分功一郎という書き手のドライブ感と重なってくるとしたらどうだろう?
それは、一見どこまでも発生の現場に遡ろうとする「意思」として読者自身に受け止められることになるだろうが、同時にそれは、一点を深く掘り下げたり、単に論理を遡行するような「思考の深度」を示すのではなく、持続するその「意思」が、部分部分で共鳴しつつ「全域化」してしまう取り返しのつかなさにまで、私たち読者を断固として連れ去っていくのである。
そのためには、単行本の形で読む方がいい。
個人的な感想をひとつ。
ドゥルーズについて徹底的に思考されている(だけの)この論文が、なぜこんなにも親しく、個人的な「私」の場所に語りかけてくるのだろう、と不思議に思わずにはいられない。
私がドゥルーズのよい読者であるなら分かるが、全くそんなことはない。
それなのに、あのカントを読んだときの異和のある感触、あのスピノザを読んだときの分からなさ、フロイトを読んだときの「分からなさ」、ハイデッガーを読んだときの共感と置いてかれ感、ラカンを読むときに感じる魅力ともどかしさ、そういうものの全てがここに詰まっているのだ。
もちろん、國分功一郎のテキストのあまりにも明晰な一本のタテ糸の強靭さ、その持続力には驚かされる。
それをたどって行くだけでその快感は「かなり」のものだろう。
それだけを読んでも、近代哲学の「系譜」をドゥルーズ読解によって示してくれている。
その膂力だけでも驚嘆に値する。
だが、惹かれる理由はそれだけではない。
今ここで起こっている微細なレベルの出来事に、テキスト自身が届いている。
そういうことなのだろうと思う。
ドゥルーズの「精神の運動の軌跡」を微分的に解析してもらっている細やかなところまでクリアになる明晰さと、にかかわらすその表現自身が「精神の運動の軌跡」それ自体であるような強靭さ、力感を同時に感じるのだ。
フーコー論についての論、の部分は連載時も未読なので、上のことは第2章までの部分に関する感想です。
さて、もう2時半。眠らなくちゃ……
これが厄介なことにすこぶる面白いのだ。
そろそろ眠らないといけないのだが、遠足前にリュックの中のご馳走である「バナナ」に手をつけてしまった小学生のときの自分、のような心境で、なかなか途中でやめられない。
岩波の『思想』に連載中の時すでに読んだ部分を「読み返して」いるはずなのに、印象がだいぶちがう。
確かに漫画でも小説でも、連載時に細切れで読んだ時と単行本で一気読みした時とで印象が異なるのはよくあることだ。
だが、この本に関しては、単行本で読まれることによって初めて得られる、いわば
「テキストの持つドライブ感の本質」
のようなモノを感じるのだ。
何を大げさな、と言われるだろうか。
しかしたとえばドゥルーズ自身の言葉
「超越論的な探求の特徴は、ここでやめたいというところでやめるわけにはいかないというところにある」
國分氏によって繰り返し言及されるいわばドゥルーズ自身の思考のエンジンの鼓動のような言葉が、そのまま國分功一郎という書き手のドライブ感と重なってくるとしたらどうだろう?
それは、一見どこまでも発生の現場に遡ろうとする「意思」として読者自身に受け止められることになるだろうが、同時にそれは、一点を深く掘り下げたり、単に論理を遡行するような「思考の深度」を示すのではなく、持続するその「意思」が、部分部分で共鳴しつつ「全域化」してしまう取り返しのつかなさにまで、私たち読者を断固として連れ去っていくのである。
そのためには、単行本の形で読む方がいい。
個人的な感想をひとつ。
ドゥルーズについて徹底的に思考されている(だけの)この論文が、なぜこんなにも親しく、個人的な「私」の場所に語りかけてくるのだろう、と不思議に思わずにはいられない。
私がドゥルーズのよい読者であるなら分かるが、全くそんなことはない。
それなのに、あのカントを読んだときの異和のある感触、あのスピノザを読んだときの分からなさ、フロイトを読んだときの「分からなさ」、ハイデッガーを読んだときの共感と置いてかれ感、ラカンを読むときに感じる魅力ともどかしさ、そういうものの全てがここに詰まっているのだ。
もちろん、國分功一郎のテキストのあまりにも明晰な一本のタテ糸の強靭さ、その持続力には驚かされる。
それをたどって行くだけでその快感は「かなり」のものだろう。
それだけを読んでも、近代哲学の「系譜」をドゥルーズ読解によって示してくれている。
その膂力だけでも驚嘆に値する。
だが、惹かれる理由はそれだけではない。
今ここで起こっている微細なレベルの出来事に、テキスト自身が届いている。
そういうことなのだろうと思う。
ドゥルーズの「精神の運動の軌跡」を微分的に解析してもらっている細やかなところまでクリアになる明晰さと、にかかわらすその表現自身が「精神の運動の軌跡」それ自体であるような強靭さ、力感を同時に感じるのだ。
フーコー論についての論、の部分は連載時も未読なので、上のことは第2章までの部分に関する感想です。
さて、もう2時半。眠らなくちゃ……