社会学について学んだこともないし、学問的に関心があったわけでもない。
ただ、折に触れて社会の出来事を分析し、その底流に流れる「無意識」のフレームを提示してくれるのが、たとえば上野千鶴子であり、宮台真司であり、大澤真幸だったことは間違いない。
文学畑の人はいささか面倒くさいか、あっけにとられるほど単純かで、どちらも据わりが悪かったということもある。
思想とかいうものには元々縁がなかったし。
で、上野千鶴子には「戦闘」を、宮台真司には「啓蒙」を、大澤真幸には「狂気」を、芸風として教わったような気が(勝手に)している。
いずれも読んでいるとき、いささか「イライラ」させられたりもしたが、概ね(上野的にいえば)「真理ではなく信憑を」語る彼らの「手品」のような言説に惚れ惚れしながらその手さばきの見事さを見入っていたような気がする。
たとえば大澤真幸。
3.11以後たまたまセミナーの後、直接質問する機会があった。
テーマは天皇だった。
私が
「天皇夫妻が避難所にくる映像を見てると、菅首相や東電社長と違って、どうしてもぐっとくるんですよね。」
と感想を述べると
「そうですかね。私はそうは思わないんだな。それじゃあ日本の天皇に過ぎない。やっぱり免震棟に行かないとね。今事故の現場に寄り添ったら、世界の天皇になると私は思いますけどね」
「でも、周りが止めるんじゃないですかね。天皇ですから、まさか行かせられないでしょう」
「そうかな。そんなことはないと思いますよ。行けばいいのになあ、免震棟」
さすが大澤先生、と私はそのとき思った。
その後、大澤真幸は「偽ソフィーの選択」というキャッチフレーズをしばらくの間原発事故について示していたけれど、この「天皇論」に比べると「偽ソフィーの選択」は説明的で、普通だった。
今回、「現代社会論」ということで久しぶりに大澤先生の話を聞いたけれど、独特のドライブ感があって、面白かった。
「病気を治療するのではなく、病気とつきあう」「べてるの家」
と、
パウロの「コリント人への第一の手紙」7章・13章とを並べて
反知性主義じゃなくて、知性をくぐり抜けた「無力」=「無」としての「愛」
の論理展開自体は、大枠『ナショナリズムの由来』から変化していないが、次々に新しい材料を繰り出してきて極限的「狂気」の近傍に立ち、その「無力」な場所から「生」の倫理をつかみ出す手さばきはやはり見事なものだ。
唯一の実体「神」を「証明」してしまうスピノザの方向とは一見全く違っているけれど、「自分で意志することについての価値の切り下げ」をいい、あくまで人間から「自然権」を切り離さず、しかも理性を最大の価値としないハイパー「合理主義」のスピノザの世界像と、「無」を接点として通底する面があるようにも感じた。
納得の講座でした。
今年出版された『生権力の思想』(ちくま新書)は、規律訓練型権力分析(フーコー)から環境管理型権力(東浩紀)へ、という方向性で、さまざまな「社会の事件」を配置しつつポストフーコーの権力論を展開している。
そういえば、フーコーの晩年についてはいろいろ議論があって、萱野稔人と大澤真幸のフーコー講座でもそこが話題になっていた。
大澤先生は基本的に
「フーコーの晩年のパレーシア論はやっぱり後退だよね。前半の権力分析がうまくいったけれど、それがうまくいきすぎて先が袋小路になってしまった。そこを離れて思考しようとしたのだろうけれど、ポスト3.11においては、フーコーの権力分析の範囲を超えている」
というスタンス。
萱野稔人は、フーコー研究者という立場もあるのか
「今、ちょっとそこはまだ」
と立場を明確にしなかったですが(大澤さんに気をつかった?)。
ここは、私にとっても、フーコーのテキストを直接ゆっくり読んで考えるべき宿題。
ともあれ、規律訓練型権力→環境管理型権力っていう大きなフレームは異論のないところ。
『ナショナリズムの由来』が目いっぱい大きな「権力論」(大澤用語でいえば「第三の審級」の不可視化)だったとして、
この前の「べてるの家」=「コリント人への第一の手紙」の講座は、ミクロのレベルでの権力論。
新刊の『生権力の思想』は、その中間の「社会学」的なフィールドワークおいて次々に「弾」(宮崎勤の祖父=幼女像、齋藤孝の身体論、ラカンの「女」、『ショアー』『ロフト・ストーリー』、オウムにおける身体性、舞踏の女性化などなど)を繰り出していく楽しい本になっている。
たどりつくところはフーコーの「パレーシア」論を超えてって感じの場所。それが先日のここにもアップした講座の内容とも重なるのだろう。
大澤真幸的「狂気」のドライブを、もう少し考えていきたい。
ただ、折に触れて社会の出来事を分析し、その底流に流れる「無意識」のフレームを提示してくれるのが、たとえば上野千鶴子であり、宮台真司であり、大澤真幸だったことは間違いない。
文学畑の人はいささか面倒くさいか、あっけにとられるほど単純かで、どちらも据わりが悪かったということもある。
思想とかいうものには元々縁がなかったし。
で、上野千鶴子には「戦闘」を、宮台真司には「啓蒙」を、大澤真幸には「狂気」を、芸風として教わったような気が(勝手に)している。
いずれも読んでいるとき、いささか「イライラ」させられたりもしたが、概ね(上野的にいえば)「真理ではなく信憑を」語る彼らの「手品」のような言説に惚れ惚れしながらその手さばきの見事さを見入っていたような気がする。
たとえば大澤真幸。
3.11以後たまたまセミナーの後、直接質問する機会があった。
テーマは天皇だった。
私が
「天皇夫妻が避難所にくる映像を見てると、菅首相や東電社長と違って、どうしてもぐっとくるんですよね。」
と感想を述べると
「そうですかね。私はそうは思わないんだな。それじゃあ日本の天皇に過ぎない。やっぱり免震棟に行かないとね。今事故の現場に寄り添ったら、世界の天皇になると私は思いますけどね」
「でも、周りが止めるんじゃないですかね。天皇ですから、まさか行かせられないでしょう」
「そうかな。そんなことはないと思いますよ。行けばいいのになあ、免震棟」
さすが大澤先生、と私はそのとき思った。
その後、大澤真幸は「偽ソフィーの選択」というキャッチフレーズをしばらくの間原発事故について示していたけれど、この「天皇論」に比べると「偽ソフィーの選択」は説明的で、普通だった。
今回、「現代社会論」ということで久しぶりに大澤先生の話を聞いたけれど、独特のドライブ感があって、面白かった。
「病気を治療するのではなく、病気とつきあう」「べてるの家」
と、
パウロの「コリント人への第一の手紙」7章・13章とを並べて
反知性主義じゃなくて、知性をくぐり抜けた「無力」=「無」としての「愛」
の論理展開自体は、大枠『ナショナリズムの由来』から変化していないが、次々に新しい材料を繰り出してきて極限的「狂気」の近傍に立ち、その「無力」な場所から「生」の倫理をつかみ出す手さばきはやはり見事なものだ。
唯一の実体「神」を「証明」してしまうスピノザの方向とは一見全く違っているけれど、「自分で意志することについての価値の切り下げ」をいい、あくまで人間から「自然権」を切り離さず、しかも理性を最大の価値としないハイパー「合理主義」のスピノザの世界像と、「無」を接点として通底する面があるようにも感じた。
納得の講座でした。
今年出版された『生権力の思想』(ちくま新書)は、規律訓練型権力分析(フーコー)から環境管理型権力(東浩紀)へ、という方向性で、さまざまな「社会の事件」を配置しつつポストフーコーの権力論を展開している。
そういえば、フーコーの晩年についてはいろいろ議論があって、萱野稔人と大澤真幸のフーコー講座でもそこが話題になっていた。
大澤先生は基本的に
「フーコーの晩年のパレーシア論はやっぱり後退だよね。前半の権力分析がうまくいったけれど、それがうまくいきすぎて先が袋小路になってしまった。そこを離れて思考しようとしたのだろうけれど、ポスト3.11においては、フーコーの権力分析の範囲を超えている」
というスタンス。
萱野稔人は、フーコー研究者という立場もあるのか
「今、ちょっとそこはまだ」
と立場を明確にしなかったですが(大澤さんに気をつかった?)。
ここは、私にとっても、フーコーのテキストを直接ゆっくり読んで考えるべき宿題。
ともあれ、規律訓練型権力→環境管理型権力っていう大きなフレームは異論のないところ。
『ナショナリズムの由来』が目いっぱい大きな「権力論」(大澤用語でいえば「第三の審級」の不可視化)だったとして、
この前の「べてるの家」=「コリント人への第一の手紙」の講座は、ミクロのレベルでの権力論。
新刊の『生権力の思想』は、その中間の「社会学」的なフィールドワークおいて次々に「弾」(宮崎勤の祖父=幼女像、齋藤孝の身体論、ラカンの「女」、『ショアー』『ロフト・ストーリー』、オウムにおける身体性、舞踏の女性化などなど)を繰り出していく楽しい本になっている。
たどりつくところはフーコーの「パレーシア」論を超えてって感じの場所。それが先日のここにもアップした講座の内容とも重なるのだろう。
大澤真幸的「狂気」のドライブを、もう少し考えていきたい。