龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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文法を教えるという仕事

2014年07月25日 14時05分35秒 | 教育
今、課外で1年生と2年生に古典文法を教えている。
助動詞のところだ。

文法の授業はだいたい面白くない、と相場が決まっている。

個人的な話をすれば、高校一年生の時の文法の時間(週1時間時間割に入っていた)は、秒速で睡眠に入る時間だった。興味のない語学の文法ほど、生徒を退屈させるものはない。それは体験からいっても間違いない。

けれど不思議なことに、あるいは厄介なことに、歳をとってからの文法授業は、あろうことかだんだん面白くなってきたのである。

いうまでもなくその言語の担い手は、おそらく文法なんてものを全く意識せずに、そのルールを実践していたのに違いない。

ここで私が感じている文法を教えまた学ぶ面白さは、単にその担い手=実践者となる面白さではない。むしろスムーズな実践者となるのではなく、文法規則を認識の手の中に入れることによって言語の実践自体を認識的に直観しようとする試みの中にその喜びを感じているようなのだ。

まるでそれは家電を買ったときにマニュアルを熟読したり、逆にマニュアルなしにその機能を使い尽くそうとしたりすることの面白さに少し似ている。

必要な用途のためにだけ「使う」のではない面白さ。しかもそれが人間の脳みそが生み出した営みの中でも最も高度に体系化された言語というものにおいて遊べるのだとしたら、これはもう最高の「遊戯」とでも言う他ないではないか。

しかしもちろん、生徒たちの反応はむしろ「鈍い」。
彼らにとって一義的には「文法」は読解のためにある。
読みたくもないテキスト読解のために、無味乾燥なルールを詰め込まれる以上の動機を持ち得ないからだろう。

そこをちょっと別の方向に転がしてやれば、文法って面白いのだなあ、と思う。
退職4年前になってようやくそんなことに気づくとは、幾ら何でも遅すぎる……だろうか。

でも、誰でもが面白い!という文法の授業を構成することはなかなか難しくても、せめて私が面白そうに授業することはできる。

それは単に一人で面白がることとはちょっと違うと思う……んだけどね。