龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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【重要】311子ども甲状腺がん裁判弁護団の抗議声明を読む

2022年02月05日 12時09分56秒 | 大震災の中で

この抗議声明は、福島に住む若者とその保護者にとって深刻な課題を含む。

3.11以後の福島における「核災害」による甲状腺がんの不存在を主張し続ける者たちは、その理由として、一斉スクリーニングによって若者の体において次々に発見された甲状腺がんは、過剰な診断によるものであり、過剰診断を止めれば不幸は消失する、という論理を白昼堂々と展開している。

つまりは検査を止めればよい、というのだ。「核災害」によって福島県の若者たちに甲状腺がんが発生したという科学的エビデンスはない、というわけだ。

そして、核災害によって甲状腺がんが、発生したという言説は風評被害だ、というのである。

これが政府や自民党によって支持されているからこそ、元首相たちが福島県で若者の甲状腺がん被害が発生した、と主張することに大反対が起こっているわけだ。

検査などしないことによって核災害の被害者ではないという「日常的な幸福」が得られるという論理はどうみても怪しい。

①核災害を起こした側(政府や自民党)が、
②核災害によって被害を受けたかもしれない人々に対して、
③声高に安全を主張する、

ということ自体がすでに倫理的な疑問を抱かせる。

一つの問題は、ここで利用されている「過剰診断ゆえの過剰(無用の?)な甲状腺がん発見」という科学的エビデンスが、はたしてどれほどのモノなのか、ということについて、科学者の間でも十分なコンセンサスが得られていないという点にある。

おそらくこれは、長期にわたる研究と観察を待たねばならないだろう。

まだその科学的主張には決着がついていないのに、片方の主張を、問題(核災害を原因とする甲状腺がん)がないという結果が都合の良い人たちによって声高に主張されているというのが本当に腹立たしい。

まず、なぜ検査が行われたのか、が問われるべきだし、また、それは短期的に結論がでることではない、ということも明らかな話だ。

過剰診断ゆえに見つけなくてもよいガンを発見してしまい、結果として若者を苦しめた、という医療者側の苦渋の声をきくこともある。それはそれで個人としては「誠実」なつもりなのだろう。
これはその部分だけを切り取るならば、心情的にわからないでもない。しかしそれは所詮医療者側の自己救済の欲望にすぎない。

重要なのは、核災害がおこって、その結果若者の被曝が懸念され、甲状腺がんの悉皆検査が実施されてきた、という経緯だ。
はたして、ここに存在する倫理的課題を、科学的エビデンスがあると主張する「過剰診断」論で解消できるのかどうか。
診断の結果、経過を見ればよい手術不要な岩が発見されたなら、そのエビテンスを患者と共有していけば、よいのではないか。

実は、核災害なり診断なりその結果なりをおそれているのは、実は検査を受けた若者とその保護者(だけ)ではなく、むしろ検査そのものを恐れているのは、核災害の責任や、検査をした責任を背負いたくない大人たちなのではないか?
という疑問がどうしても起こってくる。

科学の仕事は、権力の片棒を担ぐことではない。
だが、科学と技術は、その倫理を失ってしまった。
科学的エビデンスと倫理は、現代においては倒錯した科学神話として結びつけられてしまっているにすぎない。

科学には分かるところまでしか分からない。科学のスケールには私たち人間のいきる営みを裁断できる力は存在しない。

「核災害」についての科学的エビデンスは、試験管の中ではなく自然の中で起こった「この災害」において、限定的な意義しかもちえないだろう。
ことは倫理的な側面を必然として抱えることになる。
限定的なスケールによって導き出された限定的結論に人間を当てはめるのはそろそろ止めた方がいい。

断っておくが、科学的エビデンスの外側に人間の倫理がある、という話ではない。話しはその逆だ。
エチカの下に、科学は語られねばならない。そして科学的な判断はそれ自体が意志であり、様々多様な力のかかわり合いによってその判断もまたなされていく。限定された様態に過ぎない科学的エビデンスに、神話を招き寄せるような愚かな振る舞いを、人はいつまで続けるのだろうか、という話だ。

この弁護団の抗議声明に、理性の適切な働き、すなわち倫理をみるのは、別にスピノザ好きの私だけではあるまい(苦笑)。