龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

続・読むべし『テヘランでロリータを読む』

2022年02月04日 07時00分00秒 | メディア日記

アーザル・ナフィーシーの『テヘランでロリータを読む』の読書会をした。

私は、当時(1980年~90年にかけて)のホメイニのイラン、についてほとんど何も知らない状態でこの本を読んだこともあって、まず書かれている状況についての知識が勉強になった。次に、閉塞した状況(イスラム革命当時とパンデミックの今をごっちゃにするのはもちろんどうかと思うが)の中で続けられる、文学作品についての読書会についての本をZoomの読書会で読む、という体験それ自体がちょっと楽しかった。さらに、これは小説ではなく、イラン革命時の時代を生きた,文学に関わる者たちの群像を描いた自伝的回顧録であり、それゆえの平明さというか、大学教授らしい目配りの利いた叙述が、わかりやすくてスッとこちら側に入ってきた。付け加えると、フェミニズムの立場に立った視点も「今」にしっくりきて、読みやすかったといっていい。

また、時代的な背景を考えると、2000年代初頭、イスラムについてこれだけわかりやすく内側にいた人が書いてくれたということで、世界的ベストセラーになったというのもうなずける。20年の時を経ても、そういう意義はまだまだ失われていないという印象を受けた。こちらの不勉強もあるわけだが。

一方、読書会のメンバーからは、結局これは単声的な叙述に終始していて、イラン革命の真っ只中で人間たちが政治的文化的軍事的宗教的混沌と混乱を生きた証として読むには、圧倒的に平板なのではないか?という疑問も出された。

たしかに、ここで大学教授が描く「文学」についての評価は、革命によってみじんも揺るがない。女性たちが日々被り続けている悲惨なリアルに対しても、ギリギリのところでは沈黙を持って遇するしかない。また、教師としての語り手に敬意を持ちつつ、距離を持ちながら革命にコミットしている人間たちについても、その距離を保ったままの語りに終始しているのではないか、という不満というか、食い足りなさを指摘する声もあった。

この単声的という指摘、全てを語り手の認識に回収してしってしまう叙述の型などは、「小説読み」にとっては本当にもったいない、という印象を持つだろうこと、想像に難くない。大学教授であって小説家ではない、というのなら、その小説を読むということ、小説と向き合うこと自体が、アンチイスラム革命としての「教理」を超えた「文学的」な力を生み出していく、そんな試みが全くなかったのはやはり解せない……。

 

そんな話も出ていました。

ともあれ、そんな不満を言いたくなるほどには、様々な人びとの姿に触れられていることは確か。

人びとの姿も、文学作品も、イスラム革命の悲惨さ、イランイラク戦争の現実も、端正な説明の範囲を超えていないというのも確かで、それをこの叙述の美点とみるか限界とみるかは、読み方によって変わってくるのだと思う。

 

しかし、いずれにしても読むに値する素敵なテキストであることは間違いありません。ポリフォニックな、登場人物が混沌の中でもがきつつぶつかり合い、すれ違い、奔流に飲み込まれる、そんな「小説」ではありませんが、そんな「小説」をないものねだりしたくなるほどには刺激的でもあり、彼女たちの『ロリータ』彼女たちの『ギャツビー』彼女たちの『ジェイムズ』と私たちのそれを引き比べてみたくなる(つまり未読なら読みたくなり、既読なら読み返してみたくなるという意味で)引力がまちがいなくありました。

驚くほど読みやすいです(なぜかオムハン・パムクの『雪』のことを思い出してしまいましたが、あの猥雑さ、滑稽さ、パワー、訳のわからなさのようなものは、これだけの混乱を描いていても全くといっていいほどありません。そこが賛否両論にもなったわけですけど)。

わたし的にはお勧めだなあ。