こちらはあまり面白い話にはならなくて、野暮といえば野暮なのだろうけれど、ブログに書きつけておいた方がいいと思うので、敢えて書いてみる。
以下、ネタバレありです。
ネ
タ
バ
レ
機械仕掛けの神というキーワードがある。
deus ex machina
調べてみると、ギリシャの作劇法の一つで、話が錯綜して収拾のつかなくなった状態に対して、仕掛けによって舞台に神を降臨させ、強引に大団円に導くこと、というような意味らしい。
これが脚本・監督の提示したフレームなのは明らかだ。
敢えてしっちゃかめっちゃかなパロディにもならないような錯綜を描き、最後に帳尻合わせのように作為的な神によって事態を救抜する、というフレームは、最初から提示されている。
やはりこれは、徹底して中途半端を演じる現実たちのパロディそのものであり、その責任があるとしたら、帰責されるべきはむしろリアルの側、なのだろうと思う。
それに対して、作品のギャグが中途半端だ、とかいうのはいくらなんでもちょっとどうなんだろうね。
deus ex machina
は監督の悪ふざけに近い現場不在証明に過ぎない、と人はいうだろうか。
しかしこれは冒頭にある首相のメモと結末に描かれるウルトラマンの影との呼応の枠組みとして、大真面目にあらかじめ提示されている。
現実における原発事故以後の東電と政府のドタバタは、むしろこの映画以上に悪ふざけに近い現場不在証明そのもの、であり、そして驚くべきコトにそれが現実であるが故に、結果としてあまりにもシュールなところに私たちを知らぬ間に(今もなお)横滑りさせ続けているといっていいだろう。
だから、この映画は、その現実が演じ続けている「舞台というスカート=劇場」の裾を、ちょっとだけめくってみた、ということにほかならない。ある意味では「リアリズム」に近いといってもいいだろう。
これが成立するためには、山田涼介と土屋太鳳の二人(ある面では濱田岳も、かな)は、大真面目に狂言回しをしなければならなかった。
だから
「福島に住んでいて、ごねるのは結局『金目でしょ』(by石原伸晃)といった政治家の、パロディにもならない悪い冗談を押しつけられ続けた者でなければ分からない」
なんて皮肉の一つもいってみたくなろうというものだ。
望むなら、そして敢えていうなら
「この映画に感動してしまうほどかわいそうだっだんだね」
という憐憫を頂戴してもよい(笑)
だがでは、知性は、あるいは理性は、どこで発動しているのかな?
そんなことを逆に問うてみたくなる映画だった。
傑作とは言わない。まあ問題作ではあるのだろう。
しかし、福島で観たこの映画は、私にとって大きな意味のある作品だった。
批評にもなっていないかもしれないが、とりあえず書き付けておく。